2021年2月28日日曜日

四旬節第2主日礼拝。20210228

本日28日は四旬節第2主日の礼拝でした。
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として守られました。



長野教会で以前松本教会の信徒の方からいただいた茨の冠を、礼拝堂の十字架に飾りました。
四旬節の間、キリストの受難をおぼえつつ過ごせますように。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
創世記17章1-7,15-16節〈旧p21〉
ローマの信徒への手紙4章13-25節〈新p278〉
マルコによる福音書8章31-38節〈新p77〉

説教題「今はない和解のために」

*祈り*

和解の主なる神様。
あなたの御子イエス・キリストは自らの名誉と成果のためではなく、あなたが成し遂げられる和解の奇跡のために、すべてを委ねられました。
私たちはどうしても自分の働きには報いを求めてしまいますが、どうかその働きのすべてをあなたに捧げる者としてください。
そしてそれゆえに、あなたが私たちの働きを用いてくださったことを知らされる時には、全き恵みとしてそれが与えられ、喜びに満たされますように。
私たちの日々がつねにみ言葉と共にあり、悔い改めの心をもってあなたの戒めを聞き入れることが出来ますように。

主よ、新型コロナウイルスのワクチンが全世界で広まり始めています。
一人でも多くの人が病に苦しみ悩まされることないように、導いてください。副作用があり、そこに恐れを持つ人々がいます。その人々の恐れを取り除いてください。
いたずらに恐怖をあおることなく、皆がこの苦難を乗り越えるために必要な知識と選択とを選び取ることが出来ますように。
今なお病の中にある方々のために祈ります。
どうかあなたが病の中にあって苦しむ一人ひとりに御手をのばし、癒しをお与えください。
苦しみのなかにあるとき、私たちは余裕を失い、自分のことしか考えられず、誰かを傷つけてしまうこともあります。
どうか感謝と謙遜をもって関わりあうことが出来るようにあなたが導いてください。
厳しい状況の中治療にあたっている医療従事者の方がおられます。死に直面し、自らを責め、その働きを担えなくなる人もいます。
どうかその人の傷ついた心に十字架の痛みをもってあなたが寄り添い癒してくださいますように。あなたが赦しをお与えくださったように、私たちのうちに赦しの心を満たしてください。
自分自身を赦し、そして誰かを赦せる心をもって、私たち一人ひとりのうちに、和解の道を開いてください。
この祈りを尊き主イエスキリストの御名を通して御前にお捧げいたします。

2021年2月26日金曜日

次回28日・四旬節第2主日礼拝のご案内。

次週2021年2月28日(日)は四旬節第2主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「今はない和解のために」

と題して、10時半より
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として行われます。
牧師は長野教会に折ります。どうぞご自由にお越しください。
礼拝後は当ブログにも礼拝全体の動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

──マルコ福音書8章31-38節

2021年2月24日水曜日

今週の黙想文(箴3:6)

常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
──箴言3章6節


† † †

箴言は父が子に「しなさい」「してはならない」と勧めを語る形式で記された書物ですが、その勧めのすべてはこの言葉に集約されると言ってよいかもしれません。
私たちは数え切れないルールを与えられて人生を歩んでいきます。
それは成長すればするほど多くなっていって、いったい何を一番に守ればいいのかわからなくなる人もいます。
私が親から一番最初に教えられ、心に刻まれているルールは「人にやさしくしなさい」でした。
しかし、どんなに意地悪をされても一切やり返さなかった上、持ち物をことごとく壊されて帰ってきた私に母は「3回目からはやり返しなさい」と教えたのを覚えています。
生きていくルールを教えるのは難しいものだなと思います。
しかし、神様の教えはシンプルです──「私を見なさい」と、それだけです。
子は親の鏡と言いますが、私たちは皆、神様の子どもです。
父なる神様の教えとはどのようなものであるのかを、聖書の言葉から常に探って歩みましょう。
(20210221週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2021年2月21日日曜日

四旬節第1主日礼拝。

本日21日は四旬節第1主日の礼拝でした。
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として守られました。
教会の暦では17日・灰の水曜日から四旬節の季節が始まりました。
悔い改めへとむかう私たちの心に、荒野のキリストが寄り添っていてくださいます。
み言葉に励まされ、導かれながら、十字架の福音に耳を済ませてまいりましょう。

礼拝後、MCCの一致礼拝と2020年度総会が行われました。
野口牧師は書記から世話人(議長)の役となりました。
松本の超教派のつながりの中で、共に祈りを合わせつつ、主の恵みにあふれた働きができますように。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
創世記9章8-17節〈旧p11〉
ペトロの手紙 一 3章18-22節〈新p432〉
マルコによる福音書1章9-15節〈新p61〉

説教題「この世の荒れ野に生きる」

*祈り*

私たちの罪を赦したもう神様。
あなたはキリストの十字架によって、わたしたちの罪を赦し、復活によって永遠の命への道を開いてくださいました。
それは、私たちが罪から解放され、あなたがお造りになった本来の姿への導きであります。
私たちは常に誰かとの関わりのうちに生かされています。私たちがキリスト者として立たされることは、私たちが神様であるあなたとの関わりのうちに常に生かされているということを知ることだからです。
私たちがキリスト者として地上に生きる歩みの中には、罪との戦いがあることをあなたはご存知です。私たちの罪のゆえに、望まないかたちで関係性の不和を引き起こし、誰かを傷を付けてしまうことがあります。
そのような私たちを、聖霊によって悔い改めへと導いてください。
赦しをもって相手を理解する努力と、再びその関係を修復するために必要な言葉を、私たちに与えてください。
そして祈りを通して、私たちに再び関わりあうための勇気をお与えくださいますように。

私たちの日々の中には多くの試練があります。それは、私たちの関係性のみならず、私たちに命の危険を及ぼすものです。
先々週に起こった東日本大震災の余震は、今も断続的に続いています。そのたびに怖れと不安に満たされる人々がいます。
苦難の主よ、どうか今拭い去ることのできない不安の中にある人々に寄り添い支えてください。そしてその不安のゆえに他の誰かを傷つけてしまうことがないように守ってください。
あなたのみ言葉を聞くすべての人が、今目の前にある苦難を超えて、必ずあなたが福音を備えてくださると信じて、今日を過ごすことが出来ますように。

2021年2月19日金曜日

次回21日・四旬節第1主日礼拝のご案内。

次週2021年2月21日(日)は四旬節第1主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「この世の荒れ野に生きる」

と題して、10時半より
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として行われます。
牧師は松本教会に折ります。どうぞご自由にお越しください。
礼拝後は当ブログにも礼拝全体の動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

──マルコ福音書1章9-15節

2021年2月17日水曜日

今週の黙想文(マタイ11:6)

わたしにつまずかない人は幸いである。
──マタイ福音書11章6節


† † †

当時誰一人、極刑の象徴であった十字架が、神の子イエス・キリストの死と復活によって救いのシンボルになるとは思いもしませんでした。
それはキリストの道備えをした洗礼者ヨハネでさえ同じであったのです。
獄中から「本当にあなたは救い主なのか」と尋ねたヨハネの問いは、後に十字架を見上げた誰もが抱えた問いであったはずです。
神様はいつでも私たちの都合の良い方向にばかり働かれるわけではありません。
時には私たちが理解できない、望んでもいない結果を与えられることもあるのです。
それでも神様がキリストの十字架の死を通して復活と救いの道を証してくださったように、 すべてのことが私たちの予想を超えて備えられたご計画であることを、キリストはここではっきりと語られました。
四旬節と呼ばれる悔い改めの季節が始まります。
私たちもヨハネのように祈りによって神様の御心を問い続けながら、そのご計画にこそ委ねる信仰によって日々の歩みに立たされてまいりましょう。

(20210214週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2021年2月14日日曜日

主の変容主日礼拝 20210214

本日14日は主の変容主日の礼拝でした。
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として守られました。
松本教会から奏楽と聖書朗読音声を、長野教会から司式音声を相互に送りあっての祈りの時です。本日も最後まで無事に二つの教会での同時礼拝が守られました。


長野県内の新型コロナウイルス警戒レベルも無事全県レベル2まで下がり、ホッとしています。
それに伴い、礼拝のライブ配信を終了しました。
礼拝の動画は礼拝後にアップされますので、そちらをご覧ください。
再び警戒レベルが上がることがあれば、ライブ配信を再開いたします。


**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の讃美歌**
295(1,3)、313、395(1,2)、402(1,2)

**本日の使徒書・福音書**
列王記下 2章1-12節〈旧p577〉
コリントの信徒への手紙 二 4章3-6節〈新p329〉
マルコによる福音書9章2-9節〈新p78〉

説教題「救いは幻なんかじゃない」

*祈り*

復活の主なる神様。
あなたは主の変容の出来事を通して、私たちに救いの希望を示してくださいました。
私たちの歩む道のりがどれだけ苦難の中にあろうとも、先んじてその先にある救いを私たちに示してくださっています。
そして栄光の主がその幻のうちに留まるのではなく、あらゆる罪と悩み苦しみの現実に生きる私たちと共に歩んでくださるために、この地上に戻ってこられたという福音を、この十字架を通して受け取ります。
主よ、どうか私たちの耳を開き、あなたのみ言葉のすべてを素直に受け止めることが出来ますように。
あなたが確かに私たちと共に生き、私たちの心に寄り添い語り掛けてくださるお方であることを信じます。
私たちに注がれたあなたの愛のゆえに、私たちを隣人に対する愛の奉仕へと召し出してください。
新型コロナウイルスの状況が徐々に落ち着きを取り戻してきました。今日までのあなたの守りに感謝いたします。
しかしその他にも、私たちの耳には様々なうめきが聞こえてきます。
昨晩の大きな地震によって避難を余儀なくされた人々や、大変な状況の中にある人がいます。10年前の東日本大震災を思い起こし、多くの方が不安の中にあります。
また、差別や暴力がはびこり、心も体も傷つけられている人がいます。
主よ、どうかあなたがその一人ひとりの苦しみに深く耳を傾けてくださっているという福音を響かせてください。
厳しい苦難の時が続くからこそ、私たちが支え合い、助け合うことが出来ますように。
心からの交わりを深め、配慮と傾聴をもって関わりあう、そのような関係へと導いてください。
四旬節が始まります。どうか私たちを絶えず悔い改めへと導いてください。
あなたのみ言葉に耳を澄ませ、あなたの福音が幻などではない確かな現実の中にあることを信じます。私たちの日々が、慰めと平安に満たされて過ごすことが出来ますように。

2021年2月11日木曜日

次回14日・主の変容主日礼拝のご案内。

次週2021年2月14日(日)は主の変容主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「救いは幻なんかじゃない」

と題して、10時半より
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として行われます。
どうぞご自由にお越しください。
礼拝後は当ブログにも礼拝全体の動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

──マルコ福音書9章2-9節

2021年2月10日水曜日

今週の黙想文(ヨハネ5:6)

イエスは、その人が横たわっているのを見、
また、もう長い間病気であるのを知って、
「良くなりたいか」と言われた。
──ヨハネ福音書5章6節

† † †

教会の活動を振り返ると、コロナのせいであれができない、これができないと悩むことから始まった一年でした。
その姿は、キリストの問いかけに対して、ベトザタの癒しの池に自分を投げ込んでくれる人がいないと嘆く病人のようだと思います。
他の何かのせいにして「○○ができない」と嘆いても何の解決にもならないのですが、思い悩んでいる時にはそれで頭がいっぱいになってしまうのです。
キリストはそのような彼に「良くなりたいか」と問いかけられ、その病を癒されました。
キリストがここで癒されたのは病だけではありません。
そこから一歩も動けなくなっている彼の心をも癒されたのです。
私たちもあらゆる「できない」が立ちはだかるときこそ、このキリストの問いかけを思い返したいと思います。
「したい」ことを見極め、その時々で「出来ること」に精一杯取り組むことができるようにと、キリストは私たちの心を癒し、明日へ向かって私たちの背中を力強く押してくださるのです。

(20210207週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2021年2月8日月曜日

牧師エッセイ(2021年1月)

2019年度興行収入1位となった映画に、新海誠監督の「天気の子」があります。
祈ると天気を晴れにしてしまう少女と家出少年の二人が主人公の物語です。
少女の「祈り」によって、思いもよらないかたちで世界が変わっていくというストーリーですが、ここにはもう一つの祈りがあります。
サブタイトルに「Wethering with you」と付けられている通り、「あなたと一緒に困難を切り抜ける」という意味が込められています。
少女の祈りによって大きく変わっていく世界の中で、もう一人の主人公・何の能力もない家出少年はそれでも最後まで彼女に寄り添おうとするのです。

ラストシーン、彼の心が映し出されるようにして流れ始める主題歌「大丈夫」にはこのような歌詞があります。

「君の"大丈夫"になりたい
 君を大丈夫にしたいんじゃない
 君にとっての"大丈夫"になりたい
 (RADWIMPS「大丈夫」)」。

無力な少年は彼女を守る力を求めるのではなく、ただ寄り添い支え合い、共に困難を切り抜けることを通して彼女の「大丈夫」を祈るのです。
それは奇跡的な力によって一方的な救いをもたらすだけではなく、共感と寄り添いによって平安をもたらすキリストの祈りと教えに響きあうものではないでしょうか。

新型コロナウイルスという嵐の中にいる私たちに、それでも私たちの心に寄り添い「大丈夫」と言ってくださる神様がおられます。
そして私たち一人ひとりが誰かの「大丈夫」となるように立たされています。私たちもまた、その祈りを誰かのために捧げたいと思います。


2021年2月7日日曜日

顕現後第5主日礼拝。20210207

本日7日は顕現後第5主日の礼拝でした。
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として守られました。



松本教会からライブ配信をしましたが、礼拝開始直前で不具合の為配信が一度終了してしまい、申し訳ありません。



松本教会では礼拝後に定期総会を行いました。
これで松本・長野両教会の2021年度が開始となりました。
新しい一年の歩みも神様の恵みに満ちたものとなりますように。
どうぞ今年度もよろしくお願いいたします。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の讃美歌**
370(1,2)、348(1,3)、289(1,2)

**本日の使徒書・福音書**
マルコによる福音書1章29-39節〈新p62〉

説教題「心で出て行こう」

*祈り*

私たちの導き主なる神様。
今年一年の教会の歩みをあなたが導いてくださったことに感謝いたします。
あなたのご計画のうちに私たちの歩みが今日まで守られ、み言葉と祈りを通して支えられてきました。
その中で私たちに与えられてきたものはすべて、あなたからの恵みであるのだと思います。
苦難の時はこれからも続いていきますが、どうかその中にあってなお、あなたが私たちに与えてくださる恵みを見出し、受け取っていくことが出来ますように。
あらゆることを信仰の目を通して見ることで、あなたの御心に沿って私たちが歩みを続けていくことが出来ますように。

日々の中で起こる様々な出来事に一喜一憂し、不安はなかなか取り除かれることがありません。
しかし主よ、それでもあなたがすべてのことを通して私たちに語り掛けてくださっていることを忘れないようにしてください。
あなたが命をかけて一人ひとりのいのちの痛みに寄り添い、また癒しを与えてくださったように、あなたは目に見えずとも、心によって交わりを持たれる方です。
どうか私たちもキリスト者として、あなたに従う者として、誰かの心に寄り添い支え合う存在としてください。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20)」と言われた通りに、私たちがあなたによって立たされ、心からの交わりを分かち合うとき、あなたもそこに一緒におられ、その関わりを祝福に満たしてくださいますように。

新型コロナウイルスが今年どうなるかはわかりませんが、どのような状況の中にあっても、私たちは絶えずあなたに祈りと賛美を捧げます。
どうぞ私たち一人ひとりを愛によって立たせ、その心を通して、関わる誰かを癒し、慰め、平安に満たすために、私たちを送り出してください。

2021年2月4日木曜日

次回2月7日・顕現後第5主日礼拝のご案内。

次週2021年2月7日(日)は顕現後第5主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「心で出て行こう」

と題して、10時半より
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として行われます。
どうぞご自由にお越しください。
教会に来られるのがご不安な方はご家庭にて祈りを守れるよう、同時刻からオンライン配信もいたします。
また、来られなかった方には日曜日以降に郵送で説教等をお送りいたしますので、ご家庭での祈りに用いていただければ幸いです。
礼拝後は当ブログにも礼拝全体の動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

──マルコ福音書1章29-39節

2021年2月3日水曜日

今週の黙想文(創3:9)

主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
──創世記3章9節


† † †

神様があなたをいつも見ているよ、という言葉が使われるのは、たとえば子どもが悪いことをしていて、それを諭すときかもしれません。
しかしこのことは一つの真理を表しているように思います。
私たちは誰しも大なり小なり、神様に素直に顔向けできない罪を抱えているということです。
神様との約束を破って知恵の樹の実を食べてしまったアダムがしたように、私たちも神様の目から隠れようとするのです。

 アダムが隠れたエデンの園のように、私たちの周りには色んな欲望を満たしてくれる樹が生い茂っています。それが私たちを探す神様の姿を遮ってしまいます。
しかし、神様はそのような私たちに尋ねられるのです。
「どこにいるのか」。
神様は私たちの居場所をいつも知っておられます。
それでもこのように言われるのは、私たちが自分で神様の前に出てきてほしいと願っておられるからです。

 キリストも私たちに神様の御前に進み出るようにと招かれました。
なぜなら私たちが神様の前に感じる負い目を十字架の上で赦してくださったからです。
もはや私たちはアダムのように裁かれはしません。
私たちが神様の呼びかけに応え、まっすぐに神様と向き合うとき、そこには全き恵みと救いの実を差し出す神様がおられるのです。

(20210131週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。