2022年3月30日水曜日

今週の黙想文(1コリ10:13)

「神は真実な方です。
あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず……」
──コリントの信徒への手紙 一 10章13節


† † †

クリスチャンの中には、乗り越えることが難しい、つらい出来事に出会い、それを「神様からの試練」だと受け取って無理をした結果、体や心を壊してしまう人がいます。
そのような時、私達はこの聖書の言葉をどのように受け取ればいいのかわからなくなります。
私たちの人生に起こる様々な出来事の中には、逃げ出したくなるようなものも確かにあります。
そこでこの御言葉は私たちを奮い立たせてくれるでしょう。
しかし同時に、パウロは「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」とも続けるのです。
私たちが傷つき、苦しみ、その結果何も得られないような苦難の時を味わうことを神様は望んではおられません。
自分の心と体が壊れそうなときには、迷わず逃げてよいという神様からの呼びかけもここにあるのです。
その苦難に向き合う時、果たして自分が愛する人に必要に迫られて与えるかどうかを考えると、神様の御心が見いだせるかもしれません。

(20220327週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年3月27日日曜日

四旬節第4主日礼拝【礼拝動画】20220327

本日3月27日は、四旬節第4主日の礼拝でした。


10時半より、松本教会は通信礼拝として、長野教会は主日礼拝として守られました。
それぞれの場所において祈りを合わせてくださった方々に感謝いたします。

新調した教会のPCにて松本教会とSkypeで繋ぎ、また同時にYoutubeのライブ配信を行いました。
これまでは牧師私用のものを使っていましたが、無事不具合もなく安定して礼拝が守れてホッとしています。



長野教会には礼拝堂壁面にプロジェクタースクリーンが設置されました。
これまでは甲信地区一日神学校や教区からのライブ配信・ZOOMなどは個人での参加にとどまっていましたが、設備を整えることにより、教会に集まった皆で参加することが可能になりました。


**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
ヨシュア記5章9-12節〈旧p345〉
コリントの信徒への手紙二 5章16-21節〈新p331〉
ルカによる福音書15章1-3,11b-32節〈新p138〉


説教「放蕩する神」

*祈り*

いのちの与え主なる神様。
あなたは私たちに今日もいのちをお与えになりました。
この一週間の始まりに、悔い改めの時を備えてくださったことに感謝いたします。
あなたがお与えになったいのちは、誰かとの関わりのために備えられました。
それは、あなたがわたしたちにそうしてくださるように、他の誰かとの関わりを持つこと、誰かのために心を注ぐこと、そして祈ることです。

主よ、あなたが今日、私たちが生きるこの世界の只中に生きておられることを信じます。
それゆえに今日あなたから与えられたいのちが、悲しみと苦しみに満たされている人々のために祈らせてください。
未だウクライナでは命を奪い合う戦いが続けられています。
不安と恐怖の中にある人々に、心の平安をもたらす日々が一日でも早く戻ってきますように。
戦いに駆り立てられている人々に、平和を求める心を起こさせてください。
そしてこの戦争を止めることが出来る立場にある人々が、互いに非難し合うのではなく、互いに平和へと歩みだすことが出来る道を探ることが出来ますように。
私たち一人ひとりが絶えず平和のために祈り続けることが出来ますように。

新型コロナウイルスによる集団感染が県内でも起こり続けています。
更に感染力の高い変異株も蔓延しつつあり、私たちのいのちは絶えず危険にさらされています。
しかし主よ、このようなときだからこそ、あなたがお与えになるいのちを一日一日大切に受け取り、悔い改めをもって、あなたと共に歩むことができるよう、わたしたちを導いてください。
あなたの御心に適い、あなたと共に歩んでいくために、まず私たちがあなたのことを深く知ることが出来るよう、み言葉に聞く信仰を豊かにお与えください。

2022年3月23日水曜日

今週の黙想文(ヨハネ15:5)

わたしを離れては、
あなたがたは何もできないからである。
──ヨハネ福音書15章5節


† † †

先日、松本教会で司牧しておられた引退牧師の方が天に召されました。
その方の牧師としての働きをひも解くと、多くの人々との関わりを大変大事にされていたことがわかりました。
訃報に際し、そこにはお悔やみの言葉だけではなく、先生に助けられた、支えられたから今の自分があるという言葉が多く届けられていたからです。
そのお姿から、神様のみ心に適う信仰者の働きは、日常における人々との関わりのなかでキリストの働きを担う、ということを教えられました。
キリストがぶどうの木のたとえの中で語られた「わたしにつながっていなさい」という言葉は「互いに愛し合いなさい」という具体的な命令に結びついています。
それはただ仲良くするということではなく、キリストを相手の中に見て関わる、ということ、自分が神様と関わる時のように、人と関わるということです。
そのことをわたしたちに教えるために、まず神の御子が、人と対等な「友」となってくださったのです。
私たちの働きが御心のうちに用いられるために、まずキリストを私たちの目の前の誰かに見出すことから始めたいと思います。
(20220320週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年3月20日日曜日

四旬節第3主日礼拝【礼拝動画】20220320



本日3月20日は、四旬節第3主日の礼拝でした。

10時半より、松本教会は主日礼拝として、長野教会は家庭礼拝として守られました。
それぞれの場所において祈りを合わせてくださった方々に感謝いたします。


松本教会では礼拝後、世界祈祷日の祈りの時を持ちました。
ご参加いただいた方々、ありがとうございました。

一昨日は雪が積もりましたが、主日は温かい日になりました。
三寒四温の季節が続きますが、皆様一人ひとりの健康が守られますように。
日々の御言葉に聴き、悔い改めと共に歩んでまいりましょう。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
イザヤ書55章1-9節〈旧p1152〉
コリントの信徒への手紙 一 10章1-13節〈新p311〉
ルカによる福音書13章1-9節〈新p134〉

説教「責任問題、もうやめよう」

*祈り*

御国の主なる神様。
あなたは私たち人間の罪がどれほど深いかを、よくご存じです。
旧約聖書において選ばれた人々、預言者を通してあなたは幾度となく悔い改めのみ言葉を語ってくださいました。
あなたが語ってくださったみ言葉のすべてが、私たちへの揺らぐことのない愛から語られていることを私たちに教えて下さい。
キリストの口を通して語られる厳しい呼びかけは、あなたの御手を自ら振り払ってしまう罪深い私たちへの必死の招きであると気づかせてください。

わたしたちはあなたの似姿として造られました。
だからこそキリストがこの世においてお示しになった通り、互いに罪を赦しあい、互いに愛をもって関わりあう関係性へと私たちを立たせてください。
私たちの姿を通して、あなたの果てしない愛とゆるし、あなたの栄光を表す者として、私たちのすべてを用いてください。
今、世界では多くの不安と悲しみとが満ちています。長く続く新型コロナのパンデミックに加え、ロシアのウクライナへの軍事侵攻が止まることなく続いています。
傷つき、希望を失い、路頭に迷い、天に召される人々がいます。
東日本大震災から11年を数える年になってなお、先日も大きな地震によって各地が被害を受け、あの日の恐怖と不安を呼び起こされた人々がいます。
この世のすべての悲惨な出来事が、あなたの裁きの結果として起こっているのではないことを、あなたはキリストを通して語ってくださいました。
主よ、あなたはわたしたちが逃れようのない不幸の中にある時、それを確かに知っておられます。
そして私たちと共に苦難の中に留まり続けてくださるお方であることを、キリストにおいて証してくださいました。
その慰めのうちに私たちを保ち、そこに示されたあなたの愛にこそ立たされて、私たちが罪の行いに飲み込まれることのないように、私たちの信仰を強めてください。
悔い改めの季節を歩み続ける中にあって、この世界において悔い改めを必要とする一人ひとりに、あなたがその機会を与え、赦しと愛をもって御心のうちに導いてください。



2022年3月16日水曜日

今週の黙想文(ルカ23:43)

するとイエスは、
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
と言われた。
──ルカ福音書23章43節


† † †

自業自得とは、「自ら行った行為の報いは自分自身が受けるもの」という意味の言葉です。
福音書はキリストの両脇に同じく十字架にかけられた二人の人がいたことを書き残しています。この二人はまさに自業自得で十字架にかけられていました。
そのうちの一人は自らの罪を認め、「御国においでになるときには私のことを思い出してください」と願うのです。
「自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と自分の罪を受け止め、神に憐れみを求める者を、キリストは見捨てることがありません。
その憐れみと赦しは、どれだけ自業自得の裁きのうちにあろうとも、それを乗り越えて与えられるのです。
この果てしない救いがあるからこそ、私たちは最も深い自らの罪を、全き正しさの中におられる神様の御前に、分かち合うことが出来るのです。

(20220313週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年3月13日日曜日

四旬節第2主日礼拝【礼拝動画】20220313



本日3月13日は、四旬節第2主日の礼拝でした。
10時半より、松本教会は通信礼拝として、長野教会は主日礼拝として守られました。
それぞれの場所において祈りを合わせてくださった方々に感謝いたします。

お昼には気温が20℃近くにもなり、大変暖かい日になりました。
いよいよ春の訪れを感じる季節にも、温かい神様の愛を御言葉から聞き取りたいと思います。
コロナ禍にありつつも、皆様一人ひとりの健康が守られ、聖書の言葉に支えられて日々を歩めますよう、祈っています。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
創世記15章1-12,17-18節〈旧p19〉
フィリピの信徒への手紙3章17節-4章1節〈新p365〉
ルカによる福音書13章31-35節〈新p136〉

説教「帰っておいで、と神は言う」

*祈り*

慰めと平和の主なる神様。
今日の世界のあらゆるところで、一人ひとりの関係性が分断されています。
長く続くコロナ禍によって、人と会うことを自粛せざるを得ないという日々が続いています。
戦争を初めとした多くの争いの中で、戦うことを強制されること、日々の平穏を奪われ、離れ離れになっている人々がいます。
そして11年前の3月11日に起こった東日本大震災によって、多くの人々との別れと深い悲しみが起こり、行方不明となった人々がまだ2000人以上もいらっしゃいます。

大きな断絶が、わたしたちを引き裂く現実の中に、私たちは生きています。
しかし主よ、全ての痛みと苦しみの中にあってなお、十字架へ向かう歩みを止めることのなかったキリストの姿を、思い起こさせてください。
主よ、あなたは私たちが深い悲しみと寂しさの中にある時、そこに寄り添う方としてキリストを遣わされました。
私たちに理不尽な出来事が降りかかる時、堪え抜く力をお与えになるために、十字架のキリストを遣わされました。
私たちが罪の中から抜け出せなくとも、それでも揺らぐことのない神様の愛があること、私たちの心と魂が帰ってこれる場所があることを、キリストのみ言葉を通して私たちに語ってくださいました。
今日、わたしたちの力ではどうしようもできない状況の中にある一人ひとりを、主よ、あなたがその愛に満ちた御翼によって包み込み、守り、癒してください。



2022年3月9日水曜日

今週の黙想文(マタイ11:28)

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
──マタイ福音書11章28節


† † †

大変慰め深いこの御言葉は、良く誤解されることがあります。
それは、教会に来れば、キリストを信じれば、辛いことや悲しいことはすっかり取り除かれる、と捉えられることがあるからです。
しかしこの言葉に続いて「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(30節)」と続けられているところに、キリストの本当の慰めがあります。
キリストは私たちから様々な苦しみ──「軛」と「荷」を取り除かれる方ではなく、キリストが私たちの代わりに重荷を背負ってくださることによって、私たちの荷を「負いやすく」「軽くする」してくださるお方であるのです。
愛する誰かが苦しんでいるとき、私たちは「ああ、私が代わってあげられたらどんなによいだろうか」と思います。
その深い愛を、キリストはいつ何時にもあなたに注いでくださっているのです。
その招きの言葉に応え、キリストに自分の重荷を打ち明けることから、私たちの魂の休息は始まるのです。

(20220306週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2022年3月7日月曜日

牧師エッセイ(2022年3月)


牧師宅の飼い猫


とある先生が、「祈りには『さかなとねこ』が大切です」と仰っていました。
つまり、「さ」んび、「か」んしゃ、「な」ぐさめ、「と」りなし、「ね」がい、そして罪の「こ」くはく、これらの頭文字を取って『さかなとねこ』なのだそうです。
大変意味深い言い回しに感心してしまいました。

言い得て妙なのは、「ねことさかな」という順番ではないというところです。
つまり、祈りにおいてまず讃美と感謝を祈り、慰めを受けるからこそ、私たちは初めて神様に心を向けることが出来、御心に適った願いと罪の告白へと導かれていくものだからです。
そして、その間を取り持つのが、接続助詞である「と」──すなわち執り成しの「と」であるというところにも唸ってしまいました。
さらには、魚と猫というと、魚は猫に食べられるものという関係性の中にありますが、「さかな」──つまり讃美と感謝と慰めが先に与えられるところ、何事にも神様の働きが先んじてあるからこそ、私たちが生かされる存在とされていることを聞き取ることが出来るのです。

日々たくさんの出来事が起こり、なかなか私たちは感謝と讃美から祈りを始められないかもしれません。
「ね」がいが開口一番に出てきてしまうこともしばしばです。
しかしそのような私たちの罪に気付かされるからこそ悔い改めて、日々の「さかな」に目を留めることを大事にしつつ、祈りの生活を続けたいと思うのです。


2022年3月6日日曜日

四旬節第1主日礼拝【礼拝動画】20220306

本日3月6日は、四旬節第1主日の礼拝でした。
10時半より、松本教会は主日礼拝として、長野教会は信徒礼拝として守られました。
それぞれの場所において祈りを合わせてくださった方々に感謝いたします。

礼拝の中でもロシアによるウクライナ侵攻について共に祈りを合わせました。

コロナ禍にありつつも、皆様一人ひとりの健康が守られ、聖書の言葉に支えられて日々を歩めますよう、祈っています。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
申命記26章1-11節〈旧p320〉
ローマの信徒への手紙10章8b-13節〈新p288〉
ルカによる福音書4章1-13節〈新p107〉

説教「神の言葉は揺らがない」

*祈り*

愛と平和の主なる神様。
長く続くコロナ禍に加え、この2週間近く、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が起こっています。
平穏な日常を奪われ、防空壕に避難を余儀なくされ、未だに家に帰れない多くの人々がいます。
政府の命令によって戦い続けている人々がいます。
政府と軍という抗いがたい権力によって、争いあうこと、人々を恐怖に追いやること、誰かを傷つけることに向かわされている人々がいます。
一日でも早くこのような悲しみの連鎖が断ち切られるように、主よ、切に祈りを合わせます。
正当防衛と平和維持という最もらしい名目を並べながら、実際には多くの人々を命を奪い合う戦場へと送り込んでいく、人のうちにある罪の深さは計り知れません。
あなたがキリストにおいて成し遂げてくださった大いなる罪の赦しは、決してこれを容認するためのものではなく、むしろ誰一人傷つかないように、皆が悔い改めて互いに愛に生きるための招きとしてわたしたちに与えられました。
どうかその罪のゆえに巻き込まれ、戦火の中にある人々を守ってください。
そしてどうか、この戦いを始めてしまった人々、終わらせることが出来る人々に、あなたが必要な裁きと、悔い改めへの機会を与えてくださいますように。
多くの人々が戸惑いの中にあり、葛藤と、痛みと、悲しみと、迷いの中にあります。
裁き主であるあなたが、一人ひとりに必要な癒しと、慰めと、導きとをお与えください。
平和を祈る全ての人々の祈りをひとつにし、どうかあなたが聞き届けてくださることを信じます。
まことの平和を成し遂げるために、私たちに必要な知恵と力を与え、その働きのために用いてくださいますように。

長く続くコロナ禍の中で、心が疲れている人、余裕をなくしている人、病の床にある人、そして天に召された方々がおられます。
主よ、この苦難の時、私たちの罪が最も明らかにされる時にこそ、あなたのみ言葉に立ち返ることが出来ますように。
あなたのみ言葉にこそ立たされて、この苦難の時を、祈りと共に乗り越えていくことが出来るように、あなたが共にあって、力づけてください。



2022年3月2日水曜日

今週の黙想文(フィリピ2:4)

めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
──フィリピの信徒への手紙2章4節


† † †

このような話があります。
目の不自由な人が夜遅く友人の家から帰ろうとすると、友人は灯りのついた提灯を渡しました。
その人は「私には提灯はいりません」といいました。
すると友人は「そうでしょう、しかしあなたが提灯を持っていないと、目が見える人があなたに気付かずぶつかって危ないかもしれません」と教えてくれたという話です。
私たちが目の不自由な人が歩いているのを見かければ道を譲るように、私たちもこの目の不自由な人と同じく、気付かないうちに他の誰かからの愛のふるまいを受けていることがあります。
しかしそれに気付ことはなかなか難しいことでしょう。
だからこそ私たちには、私たちと他者との関係を見つめる第三者の目が必要なときがあるのです。
パウロはこの第三者を神様とし、神様の目を意識して歩む模範としてイエス・キリストご自身を指し示しました。
そして、キリストは私たちを「友」としてくださいました。
他者との愛の関係に生かそうとする友としてのキリストの言葉、提灯の灯りを、私たちも感謝して受け取ってまいりたいものです。

(20220227週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。