2023年3月30日木曜日

次回4月2日・主の受難日の礼拝案内。

次週2023年4月2日(日)は主の受難日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「罪深いあなたを生かすために」

と題して、
松本教会では聖餐礼拝として、
長野教会では信徒礼拝として、
両教会10時半から行われます。


どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、 「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。 そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。 イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」 弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」 またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。 このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。 人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。 さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。 偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、 「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。 そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」 イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」 イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」 そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。 どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。 そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、 「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。 ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。 ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。 ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。 そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。 祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、 相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。 このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。 主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。 そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、 茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。 このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、 そこに座って見張りをしていた。 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

──マタイによる福音書26章14節-27章54節

2023年3月29日水曜日

今週の黙想文(ヨハネ3:16)

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
──ヨハネ福音書3章16節


† † †

ある牧師が話していたことですが、「牧師の働きとは何か」と迷っていたとき、ある施設にお住まいの信徒の方が危篤に近い状態になりました。訪問に行って祈って帰ろうとすると、帰り際にある見知らぬスタッフから呼び止められ、「先生、あの人に、『あなたの罪が赦された』と伝えなくていいんですか」と言われたそうです。急いで引き返し、その人に罪の赦しを祈ると、満足そうに笑顔を浮かべ、息を引き取られたという話です。
ここにはキリスト者の働きの真髄が隠されていると思います。

私たちは洗礼を受けてキリスト者とされるとき、自らの罪を赦されるだけではなく、神様からの聖霊を注がれることにより、キリストの名によって罪を赦す力をも与えられています。
わたしたちの命にとって最期の最期まで付きまとう不安とは、死の先で永遠の滅びを受けてしまわないかという不安であるからです。
私たちの命を造り、お与えになった神様は、私たちのすべてが無に帰されることを私たち以上に臨んではおられません。
だからこそキリストと聖霊とを遣わしてくださったのです。
もし私たちが罪の苦しみの中にある時には、他のキリスト者とそれを分かち合い、祈りあいましょう。
そしてあなたの隣に苦しみ悩む人がいるならば、その人の罪を赦すためにあなたは遣わされているのです。

(20230326週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2023年3月26日日曜日

四旬節第5主日礼拝【礼拝動画】

本日3月26日は四旬節第5主日の礼拝でした。

野口和音牧師の説教により、
長野教会は聖餐礼拝として、
松本教会は通信礼拝として 両教会守られました。

先週とは打って変わって雨模様で、冷え込む主日となりました。
三寒四温ではありますが、寒暖の差が激しい季節ですね。
春が待ち遠しいです。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※動画は長野教会での礼拝となります。

**本日の使徒書・福音書**

エゼキエル書37章1-14節〈旧p1357〉
ローマの信徒への手紙8章6-11節〈新p284〉
ヨハネによる福音書11章1-45節〈新p188〉


説教「死の先へ導き出す」

*祈り*

私たちの慰め主なる神様。
主よ、あなたはこの世界と私たち一人一人の命を御造りになりました。
そこに、私たちへの深い愛があったことを、聖書は繰り返し語っています。
誰一人として失われてよい命はなく、誰一人として苦しんでよい理由はありません。
しかしこの世には、取り除くことのできない悩み苦しみと深い悲しみがあります。
愛する者の死を経験するとき、私たちの心はあなたから離れ、真っ暗闇の中に引きずり込まれる思いです。
しかし主よ、あなたは自らその暗闇の中に踏み込んできてくださり、共にその悲しみに涙してくださるお方です。
復活があるから、命を再び与えることができるからと、私たちの悲しみをないがしろにすることはありません。
その徹底的に私たちに寄り添われるという救いを、どのような苦難の中にあっても思い起こし、信仰を通して、私たちのこの世を生きる支えとしてくださいますように。
わたしたちは人生の中で、避けられない苦難や悩み苦しみを負うことがあります。
病や老い、治療法のない苦しみを背負うこともあります。
その重荷を抱えながら、あなたの御前に今日も私たちは集ってきました。
私たちがこの祈りの中にあって、一人一人が抱える重荷をあなたの御前におろすことができますように。
そしてどうかあなたがキリストにおいて、その重荷をこれからは共に担ってくださることを、信じることができますように。
私たちのこの世の苦しみは永遠ではなく、確かにあなたが約束されている復活の命において全ての悩み苦しみは取り除かれ、あなたの御心に適って生きる日が与えられることを待ち望みます。
どうかその時まで、あなたから心を離すことなく生きていくことができますように。
今日様々な理由で教会に集うことのできなかった方々を覚えて祈ります。
病の中にあって苦しんでいる人には、どうかあなたが癒しをお与えください。
家から出ることができず、一人祈っている人がいれば、その祈りをどうか聞き届けてください。
私たちがあなたの御名によって一つとされており、あらゆることを祈りのうちに分かち合い、祈りあうことができるように、私たちの心を開き、あなたの御心に適った交わりへと導いてくださいますように。

2023年3月23日木曜日

次回26日・四旬節第5主日礼拝のご案内。

次週2023年3月26日(日)は四旬節第5主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「死の先へと導き出す」

と題して、
松本教会では通信礼拝として、
長野教会では聖餐礼拝として、
両教会10時半から行われます。


どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 イエスは涙を流された。 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

──ヨハネによる福音書11章1-45節

2023年3月22日水曜日

今週の黙想文(詩9:19)

「乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。」
──詩編9章19節


† † †

詩編9篇は神様が救ってくださったという賛美の言葉から始まっていますが、この詩編を祈った人の状況は「わたしを憎む者がわたしを苦しめて」おり、死に追いやられようとしています。
自分の苦しい現状を鑑みつつ、しかしそれを神様が必ず救ってくださるという確信と賛美の祈りで包み込む形で、詩編9篇は祈られているのです。
私たちが祈りを捧げる時、どうしても私たちの苦しい現実や、それに対する救いを願う言葉ばかりが先に出てきてしまうものです。
しかし、確かに神様が私たちと共にあって、必ず助け導いてくださるという言葉から祈りをはじめ、その確信をもって自らの課題に立ち返る時、私たちは苦難の中にあってなお心強さを与えられて、祈りを終えることができるのです。
どのような時にも私たちは神様から与えられている「乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない」という祝福にこそ立たされてまいりたいものです。

(20230319週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2023年3月19日日曜日

四旬節第4主日礼拝【礼拝動画】

本日3月19日は四旬節第4主日の礼拝でした。

野口和音牧師の説教により、
長野教会は信徒礼拝として、
松本教会は主日礼拝として 両教会守られました。

昨日は松本地域は雪が積もり心配していましたが、今日は春らしい日差しが差し込む日となりました。
松本教会の庭のあんずも少しずつ花開きつつあり、春が待ち遠しいですね。




**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※動画は松本教会での礼拝となります。

**本日の使徒書・福音書**

サムエル記上16章1-13節〈旧p453〉
エフェソの信徒への手紙5章8-14節〈新p357〉
ヨハネによる福音書9章1-41節〈新p184〉


説教「イエスとは誰か」

*祈り*

導きと出会いの主なる神様。
あなたは私たちに必要なものを誰よりも分かっておられます。
かつてあなたが生まれながらにして盲目であった人を癒したとき、その人に信仰をお与えになるだけではなく、繰り返し信仰の問いを与えられ、それによっていっそうあなたを追い求める信仰をお与えになりました。
主よ、どうか私たちがあなたを追い求めるその先で、あなたに出会わせてください。
私たちの歩みの中に起こる全てのことが、あなたの御心のうちに整えられており、迷いも困難も、すべてがあなたの恵みと慰め、祝福と守りに満ちた出来事として受け取っていくことができますように。
そしてこれからの日々においても、そのようなあなたの御心にすべてをゆだねつつ、歩みを進めていくことができるよう、私たちの信仰を深く、篤くしてください。

私たち一人一人が、あなたへの信仰を告白することができる幸いに感謝いたします。
私たちが迷い悩むとき、あなたはいつも私たちの心の柱となり、進むべき道の光と道しるべとなってくださいます。
私たちが苦しみ悩む誰かに出会う時には、どうかあなたが私たちを用いて、その人にとってもっともよい道へと導いてくださいますように。
一人一人がその歩みを振り返る中で、絶えず全ての人に働かれるあなたの御業を、どうか一人でも多くの人が見出すことができますように。

あなたに目を開かれた人が直面したように、世はあなたを信じず、自分の正しさにこだわり、あなたの御言葉さえ自分自身の正当化のために使うような罪に満ちています。
主よ、どうか私たちはそのような罪に沈むことがないよう、絶えず悔い改めさせてください。
私たち一人一人の働きが、あなたの御手の働きであることをおぼえて動くことができますように。
イエス・キリストがその生涯をもって示してくださったように、わたしたちも悩み苦しむ人のために祈り、手を差し伸べ、赦しをもって共に歩んでいくことができますように。
主よ、私たちに祈ることを教えてください。

2023年3月16日木曜日

次回19日・四旬節第4主日礼拝のご案内。

次週2023年3月19日(日)は四旬節第4主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「イエスとは誰か」

と題して、
松本教会では主日礼拝として、
長野教会では信徒礼拝として、
両教会10時半から行われます。


どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 わたしは、世にいる間、世の光である。」 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。 イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。 そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」 ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

──ヨハネによる福音書9章1-41節

2023年3月15日水曜日

今週の黙想文(マルコ4:21)

何を聞いているかに注意しなさい。
──マルコによる福音書4章21節


† † †

大学で教員免許を取るために、教育実習に行ったときのことを思い出します。
人に何かを教えるということは難しいことで、なかなか生徒たちが自分の授業を聞いてくれないことに悩んでいました。
すると指導教員の先生から「生徒たちが何を聞きたいかを考えてやってみてごらん」と言われたことにハッとさせられました。
自分が教えるべきだと思うことを押し付けるだけで、生徒たちがどのようにそれを受け取ろうとしているのかに全く気が向いていなかったからです。
聞く気がない子にはこちらに注意を向かせる呼びかけが必要ですし、聞きたいと思っていても進むスピードが早くて間に合わなければ聞くことを諦めてしまいます。
教えるということはまず聞き手の求めを聞き取ることから始まることを教えられた経験でした。
キリストもまたその大切さを人々に語っています。
誰かに言葉をかける時、私たちは自分の言いたいことばかりになってしまってはいないでしょうか。
「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ」るとキリストが言うように、まずは相手の求めを聞き取り、相手が求めている言葉を選んでいくところに、豊かな「対話」が生まれるのです。

(20230312週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2023年3月12日日曜日

四旬節第3主日礼拝【礼拝動画】

本日3月12日は四旬節第3主日の礼拝でした。

野口和音牧師の説教により、
長野教会は主日礼拝として、
松本教会は通信礼拝として 両教会守られました。

暖かくなってきて、花粉がすごい時期ですね!
朝晩の寒暖差も激しく、ヒートショック現象に気を付けて下さいと呼びかけられています。
どうぞ皆様のお身体気をつけてお過ごしください。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※動画は長野教会での礼拝となります。

**本日の使徒書・福音書**

出エジプト記17章1-7節〈旧p122〉
ローマの信徒への手紙5章1-11節〈新p279〉
ヨハネによる福音書4章5-42節〈新p169〉


説教「呼び水となって」

*祈り*

愛と導きの主なる神様。
この世には多くの関係の破れがあります。
人と人とが傷つけあい、国と国が争いあうことが世界中で起こり続けています。
予想できない天変地異によって、昨日までの平安が一気に崩れ去ることもあります。
そのようなとき、私たちはどうしてこのような悲劇が起こりうるのかとあなたに祈ります。
しかし主よ、あなたがイエス・キリストを通して働かれたとき、私たちの世界に起こる天変地異をすべて止め、私たちに降りかかる危険をすべて取り除くことはなさいませんでした。
私たち一人一人の思い煩いに寄り添ってくださり、私たちが抱える罪に対して、共に悩み、共に抜け出すための道を示してくださいました。
それは主よ、あなたが私たちと共に生きてくださる存在であることの証でした。
サマリアの女性がそうであったように、あなたはキリストの一言の御言葉によって、女性が抱えていた関係性の破れを和解へと向かわせ、癒されました。
あなたの働きと、それを受けた女性の働きは小さなものでも、町全体の人々があなたによって福音の祝福に与ったように、私たちをもあなたの御心のままに用いてください。
あなたの御国の喜びのうちに、私たちを生かしてください。そしてどうか、私たちを用いて、今日悲しんでいる一人でも多くの人が、心の癒しを慰めを受けることができますように、私たちを愛に満ちた関わりへと押し出してください。
3月11日を迎え、東日本大震災から12年が経ちました。未だに家族が行方不明のまま、痛ましい記憶をぬぐえないでいる人々がいます。
また、不慮の事故によって命を失った人々の無念にも、どうかあなたが寄り添ってください。
あなたの御許に召されたすべての魂が、あなたの救いの中に入れられ、平安のうちに保たれていることを信じます。
悩み苦しみの絶えないこの世の中にあって、私たち一人一人の人生の歩みを、どうか最後まであなたの御心の中に守ってください。
そしてどうか、私たちの言葉の一言一言が、誰かを傷つけるのではなく救いへと招くための言葉として、あなたに用いられますように。
そしてわたしたち一人一人が悔い改めて、あなたを信じることから今週一週間を始めることができますように。


2023年3月9日木曜日

次回12日・四旬節第3主日礼拝のご案内。

次週2023年3月12日(日)は四旬節第3主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「呼び水となって」

と題して、
松本教会では通信礼拝として、
長野教会では主日礼拝として、
両教会10時半から行われます。


どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

──ヨハネによる福音書4章5-42節

2023年3月8日水曜日

今週の黙想文(創24:1)

アブラハムは多くの日を重ね老人になり、
主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。
──創世記24章1節


† † †

あるお年を召した方が、「先生、この歳になると生きるのはつらいですよ」と仰っておられました。
年を重ねるということはその分、思い悩むことも増え、想像以上に辛いことなのかもしれません。
旧約聖書にはアブラハムという人物が登場します。
彼は信仰によって神様に義とされた人であり、175歳まで生きたとされていますが、その生涯の中では思い悩むことが多くあったことを聖書は記しています。
神様の導きによって住み慣れた場所を捨てねばならず、息子のイサクを神様に捧げなければならないと命じられたこともありました。
その生涯はその他にも波乱万丈に満ちていましたが、それでも神様が何事においても祝福をお与えになっていたと言うのです。
このことは、私たちの人生もまたどのような苦難が降りかかろうとも、何事においても与えられている神様の祝福に目を向けるようにという呼びかけでもあります。
私たちができなくなったことよりも、まだ自分には何ができるのかということに目を向けるとき、そこには神様の祝福と導きが与えられていることに気付けるかもしれません。

(20230305週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2023年3月5日日曜日

四旬節第2主日礼拝【礼拝動画】

本日3月5日は四旬節第2主日の礼拝でした。

野口和音牧師の説教により、
長野教会は信徒礼拝として、
松本教会は聖餐礼拝として 両教会守られました。

コロナ禍で牛乳の消費量が減っているというニュースを見ました。
さらに現在、円安やウクライナ情勢などの影響により、生乳生産に必要な飼料などの価格が高騰しており、酪農経営は過去に例をみないほどの厳しい状態にあるのだそうです。
長野県でも「小布施牛乳」など有名なブランド牛乳がありますが、大変な牛乳農家さんを助けるために祈り、私たちもいつも買っている牛乳をもう一本多く買ってみましょう!
小さな協力が大きな助けになります。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※動画は松本教会での礼拝となります。

**本日の使徒書・福音書**

創世記12章1-4a節〈旧p15〉
ローマの信徒への手紙4章1-5&13-17節〈新p278〉
ヨハネによる福音書3章1-17節〈新p167〉


説教「神様に委ねるってどうすればいいんですか」

*祈り*

私たちの救いの主なる神様。
あなたは私たちに洗礼の恵みを示してくださいました。
それは、私たちがあなたを何度も見失い、あなたの救いに信頼できず、私たち自身をあなたに委ねることのできない罪を、全て水と霊によって洗い流してくださるためでした。
あなたからわたしたちに恵みとして与えられるすべてものを通して、私たちをあなたの救いへと導いてくださっていることを感謝いたします。
私たちが洗礼を受けたあの日、あなたの全き恵みのうちに救いの約束を与えられたことを信じます。
あなたは信じる者を必ず救うというお方であることをただ信じて委ねることによってのみ、あなたの救いがわたしたちのうちに与えられることを、おぼえさせてください。
私たちはいつも自分の力により頼んでしまいます。
しかし誰もがこの世に生まれた時、一人で生きることが何一つできない赤ん坊でした。
自分のすべてを相手に委ね、恵みをそのままに受け取る素直さを、どうか私たちに思い起こさせてください。
私たちの日々のうちに起こるあらゆる思い悩みも、全てが大きな導きの内の一つとして与えられていることであると、受け止めることが出来るようにと、あなたの御心を日々訪ね求めることができますように。
そして私たちが自らの弱さを分かち合い、支え合い、信頼し合って、お互いの賜物を発揮しあう、そのような群れとされていきますよう、あなたが私たちの中心にあって支えてください。
主よ、今週末には、東日本大震災が起きて12年を迎えます。
未曽有の地震と津波、原子力発電による汚染の被害は、未だに拭い去ることのできない傷あとを残しています。
あなたの御許に召された多くの方々を悼み、心に悲しみを抱えながら過ごしておられる方も、少なくありません。
しかし、そのような中で、多くの人々が自ら助けの手を差し伸べ、共に苦労を担い、祈りあいながら、復興を進めてきた事をおぼえます。
そこには確かに、あなたが共にあって支えてくださっていました。
どうか主よ、あなたの慰めと癒しがこれからも被災した人々の上に豊かに注がれますように。
わたしたちがあなたが愛するすべての人々に目を向けながら、キリストのように愛をもって関わりあっていけるように、その人の向こう側にキリストの姿を見出していくことが出来ますように。


2023年3月4日土曜日

次回3月5日・四旬節第2主日礼拝のご案内。

次週2023年3月5日(日)は四旬節第2主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「神様に委ねるってどうすればいいんですか」

と題して、
松本教会では聖餐礼拝として、
長野教会では信徒礼拝として、
両教会10時半から行われます。


どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

──ヨハネによる福音書3章1-17節

2023年3月1日水曜日

今週の黙想文(マタイ6:34)

だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
──マタイ福音書6章34節


† † †

最近見たニュースに恐ろしい記事がありました。
映画を2倍速にして見ることで普通の速度で見る時間を使って2本見ている人がいる、という記事です。
これをタイムパフォーマンス、略してタイパが良いとして最近多くの人々が行っているとありました。
タイパを重視し、そこにある行間や情緒を切り捨てて情報だけを受け取ることで知ったつもりになることほど、恐ろしいものはありません。
しかしそれほど昨今の世の中の人々は時間に追われているということでしょう。
私たちはあまりにも明日の出来事に目を向けすぎて、今日この時を大事にすることを忘れてしまってはいないでしょうか。
キリストもまた、今日この時に目を向けて生きることの大事さを語っています。
行き当たりばったりで生きることを勧めているのではなく、今を生きるということは、今日を過ごす私たちのいのちが神様によって与えられていることの恵みに目を向けることだからです。
私たちの明日のいのちが今日と同じように与えられるかは神様にしかわかりません。
明日のことを考えず、今日という日が何をするためにあなたに与えられたものなのか、考えることから一日を始めてみましょう。

(20230226週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。