2020年8月30日日曜日

聖霊降臨後第13主日礼拝。20200830

本日8月30日は聖霊降臨後第13主日の礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られました。

お昼時は日差しが強く、暑い日が続きます。
連日全国で、また長野県においてもまだまだ新型コロナウイルスが猛威を振るい続けています。そのような中で、今日も皆様と礼拝が守れたことに感謝したいと思います。
様々な思い煩いが尽きない日々ではありますが、そのような中にあるからこそ聖書の言葉に様々なことを問いかけられる思いがします。
未だおさまらないコロナ禍とこの残暑、心と身体の健康がどちらも守られますように。


**本日の礼拝全体の録音**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の主日礼拝の音声となります。


**本日の使徒書・福音書朗読**
エレミヤ書15章15-21節〈旧p1206〉
ローマの信徒への手紙12章9-21節〈新p292〉


マタイによる福音書16章21-28節〈新p32〉



*本日の主日説教「神は思い通りに動かない」(礼拝中録音)*



*祈り*

私たちの導き主なる神様。
あなたは弟子たちに、十字架への道を示されました。自分を捨て、自分の十字架を背負って歩むことは、私たちにおいても難しいことです。
あなたの愛になかなか生きることのできない私たちの現実と、目の前に広がる平和と愛が失われた世界の中で、今こそあなたのみ言葉を響かせてください。
私たちに悔い改めの心を与え、あなたが私たち一人一人のために用意されているいのちの希望へと生かしてください。
私たちがあなたの愛に生きることができない時にこそ、ペトロに語られたキリストの言葉を思い起こさせてください。私たちが歩む道を明らかに示すとともに、私たちの信仰の励ます言葉として受け取らせてください。
主ご自身が十字架の苦しみを共に担い、歩んでくださっているということを私たちの力とし、精一杯の愛と平和に満たされた関係を、他の人々と築くことができますように。

主よ、あなたの御心と救いを見出すことのできない人々がたくさんいます。
あなたが与えてくださる平和と愛を失っている人々がいます。
それゆえにより一層傷つけられている人々のために祈ります。
主よ、どうか彼らの、そして私たちの罪を赦してください。誰かを救うために私たち一人一人ができることを教え、用いてください。
あなたが命を賭して与えてくださった十字架の赦しのゆえに、わたしたちもまたほかの誰かと赦しあうことができますように。

2020年8月28日金曜日

次回30日・聖霊降臨後第13主日礼拝のご案内

 次週8月30日(日)は聖霊降臨後第13主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「神は思い通りに動かない」

と題して、10時半より
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として守られます。
牧師は松本教会におります。

また、礼拝後は当ブログにも家庭礼拝の式文と説教音声・礼拝全体の音声を載せます。
ご家庭で祈りの時を持つ際、用いていただければ幸いです。

† † †

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

──マタイ福音書16章21-28節

2020年8月26日水曜日

今週の黙想文(ローマ10:10)

人は心で信じて義とされ、
口で公に言い表して救われるのです。
──ローマの信徒への手紙10章10節

† † †

パウロが手紙を送っているローマの教会では、「救われるにふさわしい信仰とはどのようなものか?誰が天国に行くことができ、誰が地獄に堕ちるのか?」と信徒が論じ合っていたようです。
信仰について私たちは「増す」といった表現を使うことがありますが、救われるにふさわしい信仰の“量”を見極めようとしてしまうことは、当時からたびたび起こっていたのかもしれません。
しかし救いにおける信仰とは量が問題なのではないとパウロは語ります。
私たちが他の誰かの信仰の量を推し量り比べることは、当時キリストが最も厳しく非難したファリサイ派の人々と同じ振る舞いであるからです。

キリストは弟子たちにもからし種一粒すら信仰がないことを戒めていますが(マタイ17:20)、裏切られてなお、弟子たちを自らの使者としていきました。
神様が私たちを徹底的に信じてくださり、見捨てることがないという喜びこそが、信仰の原点なのです。
その喜びのゆえに「キリストは私の主です」と言葉が生まれるのです。
だから『「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。(ロマ10:13)』
他の誰かではなく、自分と神様との関係のうちにある信仰にこそ目を向けてみましょう。

(20200823週報記載)

……今週の黙想とは……

日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2020年8月23日日曜日

聖霊降臨後第12主日礼拝。20200823

本日8月23日は聖霊降臨後第12主日の礼拝でした。
長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られました。



松本教会とは手元のパソコンとカメラを通して繋がっています。
通信状況も良く、スピーカーから流れる松本教会のオルガン奏楽により、両教会同時に祈りを合わせることができました。
連日全国で、また長野県においても新型コロナウイルスが猛威を振るい続けています。
感染された方々への癒しと、現場で働いておられる医療従事者の方々のために祈りました。

**本日の礼拝全体の録音**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の主日礼拝の音声となります。


**本日の使徒書・福音書朗読**
イザヤ書51章1- 6節〈旧p1146〉
ローマの信徒への手紙12章1-8節〈新p291〉


マタイによる福音書16章13-20節〈新p31〉



*本日の主日説教「吉事屋ぺとろ」(礼拝中録音)*



*祈り*

憐みと恵みに満ちたもう神様。
この世界の中には、私たちのからだと心をむしばむものに溢れています。
私たちの信仰は忙しさや楽しさによって、いとも簡単に揺らぐものです。
けれどもそれでもあなたは私たちを赦し、昨日と変わらぬ新しい一日をお与えになります。あなたのみ言葉を聞くための時を与えてくださいます。
その中で、私たちが一時でもあなたに心を向け、癒され、励まされ、立たされて、また誘惑の多いこの一週間を歩みとおしていけるようにという恵みを与えてくださっていることをおぼえ、感謝します。
未だに新型コロナウイルスの第二波が全国で猛威を振るい、感染者何名と言う数字の向こう側、私たちの知らないところで病に苦しんでいる人々がいます。
どうか私たちがあなたのみ言葉と信仰によって、その人々に心を寄せ、その人々が癒されるようにと祈り続けることが出来ますように。
また心無い誹謗中傷によって自分を守ろうとしている人々の心にこそ、あなたが憐みをもって御手を伸ばし、平安をお与えください。
このような状況の中、医療の現場において必死に人々を助けようとして働いておられる医療従事者の方々の心と身体を守ってください。
その労苦を省み、休息を与えてくださいますように。
主よ、わたしたちはどこに生きていようとも、教会の岩として立たされ、そしてキリストとの出会いの器として用いられています。私たちがあなたの弟子としての働きを担い、誰かにとっての吉事屋として生きていけるように、どうぞ導いてください。すべてあなたにお委ねいたします。

2020年8月21日金曜日

次回23日・聖霊降臨後第12主日礼拝の案内。

次週8月23日(日)は聖霊降臨後第12主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「吉事屋ぺとろ」

と題して、10時半より
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として守られます。
牧師は長野教会におります。

また、礼拝後は当ブログにも家庭礼拝の式文と説教音声・礼拝全体の音声を載せます。
ご家庭で祈りの時を持つ際、用いていただければ幸いです。


† † †

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

──マタイ福音書16章13-20節 

2020年8月19日水曜日

今週の黙想文(使1:6)

使徒たちは集まって、
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
──使徒言行録1章6節

† † †

キリストは彼らにとって待ち望まれたイスラエル王国の再建を成就してくれる救い主であり、その暁には直弟子である自分たちこそ大臣にしてもらえるだろうとすら話し合っていた時もありました。
このような弟子たちの姿は、たとえ信仰があったとしても、目に見えるわかりやすい御利益を求めてしまう弱さを誰もが持っている、ということを表しています。
神を求め、祈る時、その祈りの通りにならなかったからといって、祈りが聞かれなかったというわけではありません。
祈りを「捧げる」と言うように、祈ったその時に神の御手の中に必ず受け止められているものだからです。
しかし、神はその時の私たちにとって最も良いものをお与えになるために、時には祈り求めたものと正反対のものが与えらえることすらあります。
その時、いかに私たちが弟子たちと同じく「ご利益」を願っていたことに気付かされるのではないでしょうか。
祈りは神との対話であり、神との格闘なのです。
祈り続ける道の先に、必ず神はそのすべてを報いる救いを用意してくださっています。
だからパウロもこのように言うのです。「絶えず祈りなさい。(Iテサ5:17)」

(20200816週報記載)

……今週の黙想とは……

日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2020年8月16日日曜日

聖霊降臨後第11主日礼拝。20200816

本日8月16日は聖霊降臨後第11主日の礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られました。

本日も快晴でしたが、ここ連日、日中は35℃を容易に超える気温を記録しています。
礼拝中は冷房を付けつつ窓を全開にして3密を避けるようにと対策を取っていますが、どうにも暑いです。コロナウイルスだけでなく、この暑さが早く過ぎ越すのを祈るばかりです。
体調を崩しがちな季節の変わり目、新型コロナウイルスだけでなく、熱中症にも気を付けてお過ごしください。

「本日の礼拝全体の録音は
(クリックすると再生されます)
※松本教会の主日礼拝の音声となります。
※「ファイルのウィルススキャンを実行できません」と表示されたら、「このまま再生」を押すと再生できます。


**本日の使徒書・福音書朗読**
イザヤ書56章1&6-8節〈旧p1153〉
ローマの信徒への手紙11章1~2a&29-32節〈新p289〉


マタイによる福音書15章21-28節〈新p30〉



*本日の主日説教「謙虚に食らいつく」(礼拝中録音)*



*祈り*

癒しと慰めに満ちたもう神様。
私たちは昨日、終戦75年目を迎えました。しかし同時に、この75年の間で、世界中で116回もの戦争が起こっていたことが報道されていました。
私たちの罪は根強く人と人との間に隔たりを生み、誰かを傷つけることをやめることができません。主イエス・キリストがそうであったように、異邦人とユダヤ人との間にあった深い敵意の壁を取り除くことは、大変難しいことです。しかしあなたは果てしない愛によって、その両者を愛し、互いに配慮し、祈りを聞き届けてくださいました。

私たちの現実の中には、様々な隔ての壁があります。
また今も様々な恐怖と不安によって、他の誰かを責め立て、傷つけ、断絶していく壁が打ち立てられています。
主よ、どうかあなたへの信仰のゆえに、そのような壁を打ち壊し、私たちが共に祈り、あなたの御名によって一つとされる、そのような救いの道を示してください。
あなたがわたしたちにそうしてくださったように、私たちがあなたの愛に満たされ、目の前にいる相手を謙虚に受け止めていくことができますように。
終戦の日をおぼえるとき、私たちはキリストの平和を胸に刻みつつ、人々の間にそれを成し遂げていくための思いと働きを新たにいたします。
あらゆる試練の中にあってなおわたしたちを力づけ、励ましてくださいますように。

2020年8月14日金曜日

次回16日・聖霊降臨後第11主日の礼拝案内

次週8月16日(日)は聖霊降臨後第11主日の礼拝です。


野口和音牧師の説教
「謙虚に食らいつく」

と題して、10時半より
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として守られます。
牧師は松本教会におります。
16時から予定されていた教会BBQは中止となりました。

また、礼拝後は当ブログにも家庭礼拝の式文と説教音声・礼拝全体の音声を載せます。
ご家庭で祈りの時を持つ際、用いていただければ幸いです。

† † †

イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。


──マタイ福音書15章21-28節

2020年8月12日水曜日

今週の黙想文(IIコリ1:4)

わたしたちも神からいただくこの慰めによって、
あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
──コリントの信徒への手紙 II 1章4節

† † †

キリスト教の最大の救いとは、苦しみや悲しみが決してそのままにしておかれないということです。
それは苦難の中に自分自身が必ず慰めを与えられることだけではないとパウロは言うのです。
パウロ自身「とげ(IIコリ12:7)」の苦しみに悩まされましたが、それゆえに「わたしは弱いときにこそ強いからです(同10節)」と言いました。
ここに弱さを弱さで終わらせない神の恵みがあります。
私たちの痛みの経験は、他者の痛みに寄り添う慰めと愛の力になるのです。

痛み苦しみを持つ人々に寄り添うことはつらく、もどかしいものです。
何か言葉をかけたくなるし、沈黙の時間を埋めたくなるのです。
しかし私たちが私たち自身の弱さに目を向けるとき、痛みを持っている人々が求めているものを想像することへと導かれていくのです。
ただ沈黙の中で隣にいる、そこに与えられる慰めもあります。
慰めは私たちが与えるのではなく、私たちを通して神が与えられるものだからです。

(20200809週報記載)

……今週の黙想とは……

日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。


2020年8月9日日曜日

聖霊降臨後第10主日礼拝。

本日8月9日は聖霊降臨後第10主日の礼拝でした。
長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られました。


長野教会では礼拝後、プチ修養会として教会暦や聖書日課についての学びをしました。


梅雨が明け、連日蝉が鳴いています。
梅雨から夏へ、また夜と日中との気温差も毎年広がっているような気がします。
体調を崩しがちな季節の変わり目、新型コロナウイルスだけでなく、熱中症にも気を付けてお過ごしください。

「本日の礼拝全体の録音は
(クリックすると再生されます)
※長野教会の主日礼拝の音声となります。
※「ファイルのウィルススキャンを実行できません」と表示されたら、「このまま再生」を押すと再生できます。


**本日の使徒書・福音書朗読**
列王記上19章 9-18節〈旧p566〉
ローマの信徒への手紙10章 5-15節 〈新p288〉


マタイによる福音書14章22-33節〈新p28〉



*本日の主日説教「よそ見ばかりの信仰だけど」(礼拝中録音)*



*祈り*

私たちの救い主なる神様。
あなたは必ず祈りを聞き届けてくださいます。主のみ心に徹頭徹尾従って生きたイエス・キリストが祈りを絶やさなかったことを、私たちは聖書から聞きます。
どうか私たちもあなたのように祈りを絶やすことなく、自分の力により頼むことなく、あなたの御手による導きと助けを信じさせてください。私たちの祈りの上で選び取る全てのことが、私たちを通して顕されるあなたの導きと働きの一つとして用いられますように。
私たちが生きる中において、あなたへの信仰から心を離し、よそ見をしてしまうことばかりです。しかしそれでも私たちのことを見放すことなく、悔い改めてあなたに立ち返ることが出来ますように。

75年前の今日、長崎に原子爆弾が落とされました。また広島にも落とされました。
毎年わたしたちはそのことを心に刻み、平和への思いを新たにいたします。
主よ、この歴史の中でわたしたちは絶えず争いを繰り返してきました。だからこそ平和はあなたのもとにしかないことを、私たちの心に刻んでください。
あなたにこそ全てを委ね、私たちの働きがあなたの働きとして用いられるように、私たちの信仰だけではなく、その心と思いをも整えてください。

新型コロナウイルスの脅威の中、また豪雨被害が深く爪痕を残す九州においても、そこに働く一人ひとりがあなたによって支えられ、愛と慰めをもって、平安を分かち合っていくことが出来ますように。
そしてそのために、私たちも祈りを合わせます。
どうか主よ、この苦難の時代にあってなお、あなたの救いと喜び、その平安を一人でも多くの人々が受け取ることが出来ますように。

2020年8月7日金曜日

次回9日・聖霊降臨後第10主日礼拝の御案内。

次週8月9日(日)は聖霊降臨後第10主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「よそ見ばかりの信仰だけど」

と題して、10時半より
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として守られます。
牧師は長野教会におります。

また、礼拝後は当ブログにも家庭礼拝の式文と説教音声・礼拝全体の音声を載せます。
ご家庭で祈りの時を持つ際、用いていただければ幸いです。

† † †

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

──マタイによる福音書14章22-33節

2020年8月5日水曜日

今週の黙想文(イザ30:15)

安らかに信頼していることにこそ力がある。
──イザヤ書30章15節

† † †

神にこそ私たちが信頼を置くことを、預言者イザヤは人々に勧めました。
しかし当時の人々がそうであったように、私たちもいざ問題や不安に苛まれると、何か自分にできることはないかとあわただしく立ち上がるのではないでしょうか。
神に委ねるということは私たちがすべてを放棄することではありません。
むしろすべてご存知である神様に信頼することによってのみ、私たちは平安に満たされることができるのです。
ルターは祈りについて、毎朝祈りから始めるように勧めています。
しかし時には時間が惜しいほどに仕事が立て込むこともあります。
その時ルターはこのように教えるのです。
「今日はやるべきことがたくさんある。だからこそいつもよりも長く神に祈る時間を確保せねばならない」のだと。
揺らぐことのない神に対する信頼にこそ私たちの心を置くことから、一日を始めてまいりましょう。

(20200802週報記載)

……今週の黙想とは……

日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2020年8月4日火曜日

今月の牧師エッセイ(牧師のヒトコト)(2020年8月)

松本教会に通ってくれていた子が、先日勉強のため留学していきました。

チャイルド・ライフ・スペシャリスト(CLS)という仕事を目指しているそうです。
この仕事は、たとえば子どもが医療行為を受ける時、どうしてこの薬が必要なのか、どんな効果や副作用があるのかを理解してもらい、主体的に治療に臨めるように心理的なサポートをするなど、特に子どもに対する心のケアを中心として幅広く活動する専門職なのだそうです。

日本ではまだまだこれからという職業だそうですが、この新型コロナウイルスにおいて浮き彫りになったのは、私たちの体や行動、判断などに私たちの心が深く結びついているということだったと思います。

感染者に対する心無い誹謗中傷や、感染を恐れるあまりに、ウイルスではなく人そのものを避けるようになっていく私たちの姿からは、わたしたちの心が、いかに「寄り添い」「愛する」ことから遠ざかってしまっていることが見て取れるのではないでしょうか。

キリストは社会の中で弾かれ、蔑まれ、距離を取られていた人々に徹底的に寄り添っていかれました。そして私たちにも言われます。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい(ヨハネ15:12)」。

身体的な関わりが制限されている今だからこそ、心に寄り添い、愛し合い、関わりあっていくことにこそ、私たちは目を向けてまいりたいと思うのです。

2020年8月2日日曜日

平和主日礼拝。

本日8月2日は平和主日の礼拝でした。
甲信地区もやっと梅雨明けが宣言され、松本教会でも蝉の声が響いていました。


松本教会では冷房のついた集会室での礼拝が先週から始まりました。
いつも月第1週には多くの方が見えられるのですが、長野県においても感染者が増加しているため、三密を避けての対策を行いました。
集会室では窓を開放し、席数を減らして十分に間隔を取りました。
集会室の席数では足りないため、礼拝堂にSkypeで繋げ、同時進行で礼拝が守れるように分散礼拝としてセッティングをしました。
礼拝にご参加の皆様にもご協力いただき感謝です。
今後も第1週は分散礼拝を継続する予定です。


本日の礼拝全体の録音は
(クリックすると再生されます)
※松本教会の主日礼拝の音声となります。
※「ファイルのウィルススキャンを実行できません」と表示されたら、「このまま再生」を押すと再生できます。


**本日の使徒書・福音書朗読**
ミカ書4章1-5節〈旧p1452〉
エフェソの信徒への手紙2章13-18節〈新p354〉


ヨハネによる福音書15章9-12節〈新p198〉



*本日の主日説教「愛は動く」(礼拝中録音)*



*祈り*


愛と救いの神様。
私たちの日々の中に、平和は失われています。
誰かのいのちを救おうと懸命に働いている人々は酷使され、病にかかった人々に寄り添うどころか、人とも思わない誹謗中傷に晒すような現実があります。
また私たちの中にも、少なからずそのような人々を愛するどころか、忌避してしまう心が生まれることもあります。
主よ、どうか私たちの心に、あなたの愛を満たしてください。私たちが誰かを慮ること、尊び愛すること、過ちを犯した人を赦すことを、忘れないようにしてください。
不満と不安にさいなまれ、誰かを傷つけるようなことがないように、悔い改めの心をお与えください。

あなたがわたしたちにどのように関わってくださっていたのかを、私たち一人ひとりが、これまでの歩みを振り返る中で思い起こすことが出来ますように。
赦された罪深い女性を指して、あなたは言われました。
「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさでわかる」と。
私たちがあなたによって赦された罪の大きさを知り、それゆえにますます大きな愛に生きることが出来ますように。
あなたが私たちに差し出してくださった愛を、また他の誰かに、私たちも差し出していくことができますように導いてください。
あらゆる場所においても、私たちが関わる一人ひとりの心に寄り添い、励ましあい、赦しあい、支えあっていくことができますように。
あなたの平和をこの世において実現させるために、私たち一人ひとりをあなたが用いてください。