2020年2月28日金曜日

【再度更新】次回3月1日・四旬節第1主日礼拝は中止です。

※再度変更があります!
次週3月1日(日)は四旬節第1主日の礼拝です。

長野教会の礼拝は自粛によりお休みとなります。
松本教会は、3月29日(日)まで、礼拝を中止いたします。
(教会員の方々には説教等をお送りいたします)
新型コロナウイルスの感染者が松本市で出たことを受け、現時点ではこのような判断となりました。
今後の感染状況により、延期・または再開が早まる可能性もあります。
このブログでも情報配信していきたいと思いますので、随時ご確認いただければ幸いです。

また、当日の家庭礼拝用式文・音声はこちらにも、3月1日(日)10時半から掲載いたします。
ご家庭での祈りに用いていただければ幸いです。

† † †

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

──マタイ福音書4章1-11節

2020年2月27日木曜日

祈祷会「詩編に学ぶ~祈りと共に~」第1回

26日(水)19時より、信徒のための祈祷会・第1回を行いました。
タイトルは「詩編に学ぶ~祈りと共に~」としました。


テゼの祈りから始まり、詩編第1篇について皆で学びを深めた後、キャンドルの光の中で共に祈りあうときを持ちました。
詩編ってそもそもどんな書物なのだろう?という基本的なところから、詩編は今の私たちに何を語り掛けてくるのだろうということを考えることができました。

詩編の中にある祈りを通して、聖書の基本的な知識を学びなおしつつ、信仰者の歩みについて、また自分自身の信仰についても捉えなおすときとなりました。

テゼの祈り「わが心 たたえよ主を いのちの主 聖なる御名」
テゼの祈り「歌え主に感謝 恵み深き主に 歌え主に感謝 ハレルヤ」

2020年2月26日水曜日

今週の黙想文(ヨハネ11:40)

もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。
──ヨハネ福音書11章40節

† † †

葬式の際に読まれるラザロの復活の出来事は、死の悲しみを越えた慰めに満ちています。
しかしどうしてキリストがラザロの病を癒されなかったのかということに目を向けると、そこにはマルタの姿が見えてきます。
彼女は以前、奉仕よりもみ言葉を優先するマリアを理解できませんでした。
しかし今やラザロの病と死を通して自らキリストを求めることを教えられていったのだと思います。
私たちは普段、病や苦難の中にない時にもキリストを求めているでしょうか。
自らは奉仕のわざに没頭し、神様は苦難を取り除く奇跡の担い手としか見ていない、そんな日々を送っていませんか。
キリストはいつでも私たちに語り掛けようとしておられます。
今日という日に与えられる喜びと恵み、慰めと癒しのすべてに満ちておられます。
その方からみ言葉を聞くことから、今日、明日と新しい一日を始めましょう。

(20200223週報記載)


……今週の黙想とは……
日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れていただく機会として用いられれば幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はどのようにみ言葉を聞いて感じたかを、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2020年2月25日火曜日

変容主日礼拝。20200223

23日は変容主日の礼拝でした。
長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られました。
コロナウイルス予防のため、両教会3月いっぱいまで聖餐は自粛することにしました。

長野教会聖壇。
マイクの音声は松本教会に送られます

松本教会。聖壇壁に長野教会の司式風景が映ります

来週から四旬節、悔い改めの季節が教会では始まります。
私たちがあらためて神様に心を向け、神様と共に歩むことを思い起こす季節です。


長野教会では女性会総会ののち、昼食のカレーを頂きました。
おすそわけのデコポンを皆で分かちあいました。

日本全国でコロナウイルスが流行し始めています。
皆様お気をつけください。
病の中にある方々には癒しを、不安の中にある方々には心の平安がありますように。
また、治療にあたっておられる医療従事者の方々の労苦が報われ、健康が守られますように。

2020年2月21日金曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

──マタイ福音書5章21-37節

† † †

1.律法を完成するために

キリストは今日の箇所の直前に「わたしが来たのは律法を完成するためである。(5:17)」と言われた上で今日の箇所を語り始められました。
しかしどうでしょうか、「殺すな」という律法を引用したあとに続けられていく律法は、一層厳しい言葉として聞こえてくるのではないでしょうか。
「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」
誰にも腹を立てず、またこのような言葉を吐かずに生きることは誰にとっても難しいばかりでなく、ほとんど無理だと思います。
このような律法の強化とも取れることが、いったいなぜ「完成」なのでしょうか。

2.抜け穴を見つける人の性

「殺すな」という律法は、神様からモーセに十戒を通して与えられたものでした。しかし「人を殺した者は裁きを受ける」とそれに付記したのは人々によってでした。
旧約聖書の長い歴史の中で人々は、神様から与えられた律法を自分の都合の良いように解釈し、裁きの範囲を限定することで自分が裁きの対象にならないようにしたのです。
旧約聖書には神様から与えられた律法の抜け穴を探るような人々の姿が多く記されているのです。
キリストが語ったのは、単なる裁きの回復、律法の本来の厳しさではありません。
神様が初めに一言「殺すな」と定められた時、いったいどのような心で私たちにそのようなルールを与えたのかということに目を向けたいのです。

3.厳しさの中に愛を見る

「廊下を走ってはいけません」と小学校の時、先生に言われました。
しかしそういわれると小学生は早歩きをして「走ってません」と言います。
「早歩きでもいけません」というと、次はスキップで走り出すものです。
このことは律法の抜け穴を探り、神様に従おうとしなかった旧約聖書の人々に良く似ているのではないでしょうか。
先生はなぜ「廊下を走ってはいけません」と言うのでしょうか。
誰かとぶつかってケガをしないようにするためです。
単に走ることが悪いのではありません。誰かをケガさせたり、また滑って自分自身が転んでケガしたりしてしまうことが危ないのです。先生はそうならないようにと願って厳しく言うのです。
──身体も、心も、私たち一人ひとりの存在すべてが、誰かに傷つけられること、損なわれること、殺されることがないように。
そのように願っておられる神様の愛が、律法の「殺すな」の一言の中には込められていたのだと思います。
そのことを思い起こしてほしくて、「なぜ律法を厳しくするのが完成なのか」という問いをキリストは私たちに与えられているのではないでしょうか。

4.言葉の向こう側に心を見る

キリストは厳しい裁きの言葉を語られます。
裁きを受けて地獄に落ちるくらいなら、悪い体の一部を捨て去ってしまえとすら言います。その厳しさは神様の愛を語ると同時に、私たちの弱さをも表しているのです。
私たちが今日のキリストの言葉を聞いたとき、どのようにそれを読んだでしょうか。字面ばかりを追い、「こんなの守れるはずがない」と聞かなかったことにはしていないでしょうか。
ファリサイ派の人々は神様から与えられた律法を文字通りに守ることを一番大切にしていました。それゆえに、守れない人々への愛に欠け、差別を生みました。
キリストの言葉を聞く人々も同じです。キリストの言葉を文字通りに守ればよい、と考えるとき、私たちはファリサイ派の人々と同じ罪に陥ります。
キリストが厳しさの裏で伝えたかった神様の愛がなければ、律法は完成しないのです。
律法の完成、それは、他者の思いに寄り添い、裁きあうことのない関係を保つこと。どちらかに不満があればきちんと和解しあうこと。
そのような人と人との関係を通して、律法を定められた神様の御心──愛に生きるという律法の完成を、キリストは願っておられるのです。

2020年2月20日木曜日

次回23日・変容主日礼拝のご案内。

次週2月23日(日)10時半から、変容主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「キリストに聞く」

と題して、
長野教会では聖餐礼拝、松本教会では主日礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
牧師は長野教会におります。お待ちしております。

† † †

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

──マタイ福音書17章1-9節

2020年2月19日水曜日

今週の黙想文(IIコリ12:9)

力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。
──コリントの信徒への手紙 二 12章9節

† † †

ルカが記したパウロのダマスコでの奇跡的な出来事による回心は有名ですが、パウロ自身は手紙の中でそのことをほとんど触れていないのはなぜなのでしょうか。
まさに奇跡的なキリストとの関わりであったのですから、キリストを証しするとなれば一番わかりやすい出来事であったはずです。
パウロはむしろ、そのすばらしさの反面で与えられた「とげ」──持病を通してキリストを証しします。
特別な者にしか与えられない奇跡よりも、誰もが抱える「とげ」にこそ、神様の恵みと力とが満ち溢れているのだというのです。
それこそがキリストの十字架に示された救いの出来事であり、また私たちに与えられる最も慰め深い福音であることをパウロは聞いたのだと思います。
奇跡的な出来事だけではなく、むしろ神様を疑うような出来事のうちに「わたしの恵みはあなたに十分である。」と語ってくださっているみ言葉に力づけられてまいりましょう。

(20200216週報記載)


……今週の黙想とは……
日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れていただく機会として用いられれば幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はどのようにみ言葉を聞いて感じたかを、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2020年2月18日火曜日

顕現後第6主日礼拝・MCC一致礼拝 20200216

16日は顕現後第6主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では主日礼拝として守られました。

朝はステンドグラスから入った光が
礼拝堂の床に輝きます

コロナウイルスももはや関東圏だけではなく全国どこまで広がっているかわからない状況とのことで、聖餐も自粛をしました。
皆様どうぞお気をつけください。


昼食は野沢菜を高菜ご飯のようにした野沢菜ごはん。
とっても美味しかったです。

昼食後、MCC(松本キリスト教協議会)の一致礼拝と総会へ。
松本市ではルーテル教会、カトリック教会、バプテスト、日本基督教団など教派を越えた教会のつながりの中で、信仰の友として一緒に活動しています。




今年の記念礼拝は新しい会堂となった、日本バプテスト連盟蟻ヶ崎キリスト教会にて。
天井が高く柔らかい組木と美しい白壁が映える礼拝堂です。
外観の壁は信徒さんが手ずから塗ったという素敵な仕上がりになっていました。
今年もどうぞよろしくお願いします。

† † †

キリストを主とする群れが、
その働きを必要とする人のために、
これからも一致を保っていけますように。

2020年2月13日木曜日

次回16日・顕現後第6主日礼拝のご案内。

次週2月16日(日)10時半から、顕現後第6主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「厳しさの中に愛を見る」

と題して、
長野教会では信徒礼拝、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
牧師は松本教会におります。お待ちしております。

† † †

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

──マタイ福音書5章21-37節

2020年2月12日水曜日

今週の黙想文(マルコ4章27節)

種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
──マルコ福音書4章27節

† † †

米の栽培について調べてみたら、初めは浸かるほどの水で育て、最後は土を乾かすくらい水の量を減らしたりするのだそうです。
稲の成長にあわせて水の量を調節する必要があると知り、驚きました。
しかもそれだけ手をかけても、最後の実りを決めるのは技術や努力ではないというのです。
キリストは神の国を麦穂にたとえられました。
私たちがどんなに努力しても、時には信仰生活の中で神様の姿が見えず、日々の中に何の恵みも見つけられないような日があります。
しかし神様は私たちのうちに育つ神の国の育て方を全てご存じです。
豊かな実りのために、時には信仰の迷いも、渇きも必要なのです。
「その穂には豊かな実ができる」と語ってくださったキリストの言葉に信頼して、祈り委ねて参りましょう。


(20200209週報記載)


……今週の黙想とは……

日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れていただく機会として用いてくだされば幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2020年2月11日火曜日

顕現後第5主日礼拝。20200209

9日(日)は顕現後第5主日礼拝でした。
長野教会では主日礼拝として、松本教会は通信礼拝として守られました。


長野教会のほうでは雪が積もり、朝から雪かきをしました。
雪かきをするのは長野では今年1度目。
また今週は暖かくなるとのことで、大変な暖冬です。



昼食は信徒の方特製のカレーといろんなおかずをいただきました。
長芋って生で食べるとろろのイメージが強かったのですが、豆と一緒にふかして甘い味付けで食べるのもおいしいです。
また、湯河原教会の方からいただいたはっさくもいただきました。
ご自宅の庭になったものだそうですが、甘酸っぱくてとてもおいしくいただきました。
ありがとうございます。

† † †

この記事をご覧の方々の日々にも
神様の恵みを見つけることができますように。

2020年2月7日金曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」


──マタイ福音書5章1-12節

† † †

1.山上の説教が始まる

マタイ福音書の5章から7章にかけてはキリストが山に登り、群衆たちに対して天の国に関する長い説き明かしをすることから「山上の説教」と呼ばれています。その冒頭の部分が、今日の箇所です。
けれどもそこに語られている言葉を読むと、私たちは素直にそれを受け入れられないかもしれません。
「心の貧しい人」「悲しむ人々」「飢え渇く人々」は「幸いである」と言われているからです。

2.神様との関係のうちに

マタイ福音書の中で多用されるものに「枠構造」というものがあります。
「心の貧しい人」と「義のために迫害される人」はどちらも同じく「天の国はその人たちのものである」と続けられています。
このように同じフレーズを枠として配置し、その間で語られているもののテーマを定める役割を持たせるのです。
つまり「悲しむ人々」が「慰められる」こと、「柔和な人々」が「地を受け継ぐ」こと、「義に飢え渇く人々」が「満たされる」ことなどは、一貫して「天の国」における出来事として捉えてよいでしょう。
この「天の国」とは「神様のご支配」をあらわす言葉で、「人々に神様の心がいきわたっている」領域のことを指しています。
それゆえ、この「幸い」は、一般的な「幸運/幸福」とは違い、神様と私たちとの関係の中にこそ起こる「幸い」なのです。

3.「幸い」とは

お年を召したある方が、愛称聖句としてこの箇所を挙げられていました。
どうしてこの箇所を選ばれたのですかと聞いたところ、このような答えが返ってきました。
「私は年を取ってから洗礼を受けましたが、神様を信じる前よりもあとのほうが、苦しかったり辛かったりすることが増えました。若いころにいろんな人に迷惑をかけたことや、優しくできなかったりしたことを神様に悔いることが多くなったからです。だからこそ、この幸いについての箇所はとても身に染みるのです」と言われていました。
この言葉を聞いて気づかされたのは、与えられる「幸い」とは私たちが考えるポジティブなもの──「慰め」や「満たされること」、「憐み」といったものだけではないということです。

4.幸福なるかな

神様との関わりを持つとき、神様は私たちの心の貧しさを露にされ、また過去に犯した愛のない振舞いを思い起こし、悲しまれます。私たちもまたそれを悔い、悲しみに満たされることがあります。
神様との関わり、信仰によってもたらされるものは、必ずしも私たちの考える「幸せ」なものばかりではないのだと思います。
文語訳の聖書を開いてみると、原点のギリシャ語に近い形の語順となっていて、キリストが人々に語りたかったポイントが見えてきます。
「イエス 口をひらき、教えて言いたまわん、
 幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。
 幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん
 幸福なるかな、……。」このように続いていきます。
どのような状況の中にあったとしても、「幸福なるかな」──あなたは幸いなのだ、神様との関係の中にある限り、そのことだけは揺るがないのだと、確言してくださっているのです。
揺らぐことのない神様の言葉に支えられて、どのようなことも「さいわい」と受け止めることのできる日々へと、踏み出してまいりたいと思います。

2020年2月6日木曜日

次回2月9日・顕現後第5主日礼拝のご案内。

次週2月9日(日)10時半から、顕現後第5主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「旧約聖書、必要ですか?」

と題して、
長野教会では主日礼拝、松本教会では通信礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
牧師は長野教会におります。お待ちしております。

† † †

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

──マタイ福音書5章13-20節

2020年2月5日水曜日

今週の黙想文(第1テサロニケ5章17節)

絶えず祈りなさい。
──テサロニケの信徒への手紙 一 5章17節

† † †

祈りは魂の呼吸である、と昔から言われてきました。
私たちは仕事や日々のあらゆることに時間を取られていますが、呼吸は止まることがありません。
祈りもそれと同じです。やるべき仕事の一つとして祈りの時間を割こうとすると途端に苦しくなり、続けられなくなるのです。
「祈りの本質と性質は、思いと心を神様の方へと上げていくことにほかなりません。身体を使う仕事を行っている間にも、この霊的な祈りが絶えず行われますように。」とルターは言っています。
日々のあらゆることのなかに神様との愛なる関わりを思い起こすことも一つの祈りと言っても良いでしょう。
困っている人に手を差し伸べ、どのような人にも慈しみに満ちた言葉をかけましょう。
私たちの愛は、いかにすべての人が神様に愛されているかを知っていることの顕れでもあります。
そして私たちはその働きを顧みるとき、再び祈りに導かれていくのです。

2020年2月4日火曜日

顕現後第4主日礼拝。20200202

2月2日・日曜日は顕現後第4主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。


明け方は寒かったですが、昼には春並みの陽気に。
冬が来ないまま終わりそうです。
聖書の山上の説教の箇所から、ゆるぎなく与えられている「幸い」について聞きました。

礼拝後、松本教会60周年記念誌に載せる写真の選定をしました。


松本教会旧会堂の様子。赤い十字架の塔が映えています。
今は一階建ての新会堂になりましたが、当時は二階建てだったんだそうです。
良き記念誌としてまとまりますように。

† † †

苦難の中にある人々、
特にコロナウイルスの罹患と危険の中で
不安の中にある人々ひとりひとりに、
平安と癒しがありますように。