2021年3月29日月曜日

次回4月2日・受苦日の祈りのご案内。

次週2021年4月2日(金)は受苦日の祈りです。
松本教会では10時半から、長野教会では14時半から、
キリストの十字架の御苦しみをおぼえ、祈りを合わせる時が持たれます。
どうぞご自由にお越しください。

† † †

こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

──ヨハネ福音書18章1-19章42節

2021年3月28日日曜日

主の受難日の礼拝 20210328

本日3月28日は四旬節第6主日・主の受難日の礼拝でした。
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として守られました。
これまで通信礼拝時は奏楽と聖書朗読・祈りのどちらも松本教会からの音声が届いていましたが、
今回から月4週目の通信礼拝の時は、聖書朗読と奉献の祈りの音声を長野教会から送ることとなりました。
松本長野2教会の礼拝がこれからも豊かな相互の祈りとして守られますように。

長野教会の庭にもあんずの花がきれいに咲いていました。
桜のほうはもう少しかかりそうです。



**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
イザヤ書50章4-9a節〈旧p1145〉
フィリピの信徒への手紙2章5-11節〈新p363〉
マルコによる福音書15章1-39節〈新p94〉

説教題「最悪の出会いと最高の福音」

*祈り*

罪の贖い主なる神様。
この世には多くの罪が引き起こす苦しみと悲しみが溢れています。
苦しみの中にあって自分のいのちを守ることに精いっぱいになり、他者のいのちを傷つけることをいとわず、時には家族のいのちですらも奪うような悲しい事件も起きています。
貧しさの中に立たされ、誰からも助けてもらえずにうめいている人々がいます。
このコロナ禍の中にあって、十字架の主よ、あなたが十字架の苦しみをもってそのすべてに寄り添っておられること、私たちが十字架を背負って歩むことを慰めと希望をもって聞くことが出来ますように。

罪のゆえに誰かとの関係性を断ち切ろうとする、自分一人で生きていこうとする私たちに、あなたはキリストという関わりあう相手を送られました。
それゆえに私たちが関わりを持つ隣人のうちに、キリストの姿を見出すことが出来ますように。
私たちがキリストから受けたように、相手を赦し、寄り添い支え合う関係へと導いてください。
そして何よりも私たち自身が悔い改めをもって、あなたが歩まれた愛の道を歩むことが出来ますように。

今日からあなたの十字架への苦しみをおぼえる聖週間が始まります。
その一日一日を、悔い改めの機会として改めて受け取ることが出来ますように。
私たち自身を振り返り、あなたが私たちを今日ここまで導いてくださったことを感謝しつつ、あなたのみ言葉に生きる者としての歩みへと踏み出すことが出来ますように。
そして今日ここに集うことのできなかった方々、ご家庭で共に祈りを合わせておられる方々の上にも、あなたの十字架の赦しと導きとが豊かに与えられますように。
主に出会い、主のみ言葉を聞く私たちが永遠の命をいただくその日まで、私たちが主にあって兄弟姉妹としての交わりをかかすことがないように、私たちを隣人への愛に満たし、その関わりへと押し出して下さい。

2021年3月25日木曜日

次回28日・主の受難主日礼拝のご案内。

次週2021年3月28日(日)は主の受難主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「最悪の出会いと最高の福音」

と題して、10時半より
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として行われます。
牧師は長野教会におります。どうぞご自由にお越しください。
礼拝後は当ブログにも礼拝全体の動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。《(†底本に節が欠落 異本訳)こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。》そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

──マルコ福音書15章1-39節

2021年3月24日水曜日

今週の黙想文(イザ57:15)

わたしは、……打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり
──イザヤ書57章15節


† † †

悔い改めるとは、必ずしも自ら反省することによって起こるのではありません。
それは神様が私たちを打ち砕かれることから起こる奇跡なのです。
そこで打ち砕かれるものは私たちの罪だけではありません。
時に私たちの心のすべて、これまで積み重ねてきた祈りや善きわざ、信仰そのものですら、粉々にされる出来事が起こるのです。

その時、私たちは絶望しか感じられないかもしれません。
しかし自分がキリスト者であること、その信仰を証しするもののすべてが打ち砕かれ、その後に残る"ありのままの自分自身"こそ、神様が心から愛しておられる私たちの姿であるのです。

 「からし種一粒ほどの信仰(マタ17:20)」すら持てなかった弟子たちを、それでもキリストは最後まで愛し抜かれました。
その証こそが、キリストの十字架です。
神の独り子であるキリストが人の子として生まれ、徹底してへりくだり、十字架において打ち砕かれたのは、ありのままの私たちを明らかにし、愛をもって寄り添ってくださるためだったのです。
キリストの十字架を通して、悔い改めを祈り求めましょう。

(20210321週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2021年3月21日日曜日

四旬節第5主日礼拝。20210321

本日3月21日は四旬節第5主日の礼拝でした。
松本教会では主日礼拝として、長野教会では通信礼拝として守られました。
松本教会の庭のあんずの花が木曜日には咲き始め、


日曜日にはほとんど満開になっていました。


実がなってくれるのが楽しみです。

礼拝後、東教区次世代育成(NEXT)主催のCS教師研修会がありました。
教会員の方を講師として、イースターとペンテコステに教会学校で使えるクラフト講座をしていただきました。



**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
エレミヤ書31章31-34節〈旧p1237〉
ヘブライ人への手紙5章5-10節〈新p406〉
ヨハネによる福音書12章20-33節〈新p192〉

説教題「もう一つの栄光」

*祈り*

私たちの救い主なる神様。
あなたは御独り子を十字架にかけてまで、わたしたちの恵み深いいのちを与えてくださいました。
たとえ私たちが罪の中に迷い込むことがあろうとも、あなたはそのいのちを奪われることなく、悔い改めの道を備えてくださいます。
その愛と憐れみによって私たちが今日生かされていることを感謝いたします。
私たちが過ごす一日一日が、あなたの導きのうちにあり、新しいいのちとして与えてくださっていることを、日々忘れることがありませんように。
わたしたちがあらゆる苦しみの中にある時、あなたは十字架の主を通して寄り添う者となってくださいました。
それだけではなく、私たちが苦難から抜け出し、平安と喜びに生きる時にも、あなたは私たちに必要なものをすべて与えてくださいます。
そのことを、私たちが隣人との深いかかわり、信仰の交わりをもって、分かち合うことが出来ますように。
わたしたちが目に見えるものばかりに心を奪われるのではなく、そこに隠されたあなたの御心と語り掛けを見出すことが出来ますように。

東日本大震災から10年を数えた今、再び東北では地震が繰り返し起こってきています。
10年前のことを思い起こし、不安と恐怖の中に置かれている一人ひとりに、あなたが寄り添い支えてください。
一人ひとりの心に、あなたが与えてくださる平安と、キリストが示された愛をもって関わり合うまことの命への道をお与えください。

新型コロナウイルスの猛威が、再び長野を襲っています。
病の中にある人々に癒しがありますように。
また、そのために働き続けておられる医療従事者の方々、施設職員、エッセンシャルワーカーの一人ひとりの上に、休息と平安とが保たれますように。
私たちがあなたによって生かされていること、地上のいのちを超えてあなたと共に永遠に歩み続けることができるいのちを与えられていることを信じつつ、感謝に満たされた日々を送ることが出来ますように。

2021年3月18日木曜日

次回21日・四旬節第5主日礼拝のご案内。

次週2021年3月21日(日)は四旬節第5主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「もう一つの栄光」

と題して、10時半より
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として行われます。
牧師は松本教会におります。どうぞご自由にお越しください。
礼拝後は当ブログにも礼拝全体の動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

──ヨハネ福音書12章20-33節

2021年3月17日水曜日

今週の黙想文(マタイ6:12)

わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
──マタイ福音書6章12節


† † †

主の祈りはいくつもの訳がありますが、特につまづきやすいのは罪のゆるしについての箇所だと思います。
神に罪を赦されること、そして私たちが誰かの罪を赦すことについての祈りを、私たちはどうしても「どちらが先に起こるのか」という視点で捉えてしまいがちだからです。
ルカ福音書では「わたしたちも……皆赦しますから。(ルカ11:4)」とあり、マタイ福音書では「わたしたちも……赦しましたように。」となっており、余計に混乱します。
しかしこのように統一されていないところにこそ答えがあります。
重要なのは「どちらが先か」という順番ではないということです。
キリストの十字架によって赦されているから赦せるようになる私たちがいるという一方で、私たちが赦すことによって、キリストの十字架の赦しの尊さを真にその身に受ける体験をすることもあるからです。
表現の違いは強調点の違いであって、キリストの赦しが与えられると同時に、私たちも誰かを赦そうとすることへと押し出されているのです。

(20210314週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2021年3月14日日曜日

四旬節第4主日礼拝。20210314

本日3月14日は四旬節第4主日の礼拝でした。
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として守られました。


10年を数える東日本大震災、長野県北部地震を思い起こし、祈りに覚えます。
目に見える復興が進む中でも、今も苦しい生活を送り、不安と痛みの中にある人々がおられます。
そこに生きるお一人お一人が、いのちの希望を失うことなく歩めますように。
亡くなられた方々の魂が永遠の平安のうちにありますように。
すべての人の痛みを担われたキリストが共におられて、慰めに満たしてください。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※長野教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
民数記21章4-9節〈旧p249〉
エフェソの信徒への手紙2章1-10節〈新p353〉
ヨハネによる福音書3章14-21節〈新p167〉

説教題「愛を仰ぎ見る」

*祈り*

いのちの与え主なる神様。
東日本大震災と、県北部地震から10年が経ちました。
区切りの年を迎えてなお、被害を受けた人々の心が癒されることは難しく、今なお痛みの中に留められている方が大勢います。
また、近年頻発するあらゆる自然災害や、未だにおさまることのない新型コロナウイルスにも不安をおぼえながら私たちは過ごしています。
主よ、あなたは十字架の主を通して、その一人ひとりの痛みと苦しみに寄り添われました。
10年を経てなお癒されることのない人々の心に、あなたの慰めが届きますように。
あなたは愛のゆえに、私たちが誰一人滅びることを望まれません。そしていつでもあなたは私たちに十分な恵みを与えてくださっています。
どうかいつでも私たちが感謝をもってすべてのことを受け取り、日々の中に起こる出来事を通して気づきが与えられますように。
悔い改めをもってあなたからの語り掛けを聞きいれ、私たちが自分と隣人の命を大切にし、互いに愛し合い、祈りをもって支えあう関係へと生かしてください。
私たちの日々が時に闇に覆われ、進むべき道も、あなたの御声が聞こえなくなる時もあります。どうかその時には、十字架の光を通して私たちを照らし出してください。
私たちの犯した罪を明らかにし、悔い改めへの道を示してください。
私たちの日々の歩みと行いの中にいつもあなたの御言葉が響きわたり、あなたと共に歩むいのちへと導いてくださいますように。
今日ここに集うことのできなかった方々、遠くで祈りを合わせておられるすべての人々の上に、あなたが豊かな恵みを与え、明日からの歩みを導いてください。
わたしたちのいのちの全てを、あなたのみ旨に委ねます。

2021年3月11日木曜日

次回14日・四旬節第4主日の礼拝のご案内。

次週2021年3月14日(日)は四旬節第4主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「愛を仰ぎ見る」

と題して、10時半より
松本教会では通信礼拝として、長野教会では主日礼拝として行われます。
牧師は長野教会におります。どうぞご自由にお越しください。
礼拝後は当ブログにも礼拝全体の動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

──ヨハネ福音書3章14-21節

2021年3月10日水曜日

今週の黙想文(コヘレト3:11)

神はすべてを時宜にかなうように造り、
また、永遠を思う心を人に与えられる。
──コヘレトの言葉3章11節


† † †

愉悦も快楽も労苦も「すべては空しい」と言うコヘレトが見極めたのは、あくまで自分の力によって手に入れたものへの空しさでした。
コヘレトは空しさのゆえに刹那的な生活を求めたのではありません。
むしろ自分が本当に喜び楽しみ、魂を満足させるものは「神の手からいただくもの(2:24)」しかないという真理にたどり着いたのです。
私たちが日々のなかで起こる問題に立ち向かい、努力している時はその大切さに気づけないかもしれません。
全てのことがひと段落して、何もする必要のない一日を迎えたとき、私たちは空虚さに苛まれ、「誰かのために、何かしなければ」と思ってしまうことはないでしょうか。
私たちが自分の力で勝ち取ることがなくとも与えられているものに目を向ける時、それは神様からの全き恵みであることに気付かされるのです。
せわしい日々の中でいっときでも、静かに神様の働きに耳を澄ませる時を持ってみましょう。
あらゆる思い悩みが押し寄せる日々の中にあってなお、神は私たちの心を癒す御言葉を与え、ご計画のうちに明日へと送り出しておられます。

(20210307週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2021年3月8日月曜日

牧師エッセイ(2021年3月)

世界的には本日3月8日は国際女性デー、そして3月が女性史月間とされているそうです。
この国際女性デーの始まりは1917年2月23日にロシアで女性労働者たちが起こした「2月革命」に由来するのだそうです。
当時のロシアではユリウス暦が使われており、現在のグレゴリオ暦ではこの日は3月8日だったことから、後に国連が1975年に正式に定めました。
そんな時期にピッタリのドラマをNetflixという動画配信サービスで見つけました。
2020年に大反響を呼んだ「クイーンズ・ギャンビット」というドラマです。
孤児となった少女がチェス界を駆け上がっていくというストーリーです。
男女差別が激しい時代の中、女性プレイヤーに異質さを感じる視線や、自身の孤独や依存に向き合っていく展開には考えさせられ、何度も勇気を与えられました。
その一方で、彼女と正々堂々チェスの戦いを終えた男たちが彼女と対等な立場で関わる姿に変わっていく場面が描かれ、現代に向けた祈りが込められたかのようなストーリーでした。
今なお私たちの目の前には様々な偏見や差別がはびこっています。
キリストもまた、差別を始めとした人と人との関係を傷つけていくもの──罪に立ち向かっていかれました。
この3月は教会の暦では四旬節と言い、罪を悔い改める季節でもあります。
国際女性デーの学びと共に、自分自身の抱える罪を、振り返ってみましょう。

2021年3月7日日曜日

四旬節第3主日礼拝。 20210307

本日3月7日は四旬節第3主日の礼拝でした。
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として守られました。



分散礼拝のご協力いただいた方々には感謝いたします。
礼拝堂をskypeでつなぎ、プロジェクターとスクリーンで離れた集会室でも同じ礼拝に与れるようにしています。
たくさんの方々と共に礼拝に与り、また新しい方との出会いもあり、喜びに満ちた主日となりました。


**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※松本教会の礼拝動画となります。

**本日の使徒書・福音書**
出エジプト記20章1-17節〈旧p126〉
コリントの信徒への手紙 一 1章18-25節〈新p300〉
ヨハネによる福音書2章13-22節〈新p166〉

説教題「キリストが清められたもの」

*祈り*

すべての人の導き主なる神様。
あなたは遠い昔、イスラエルの人々をエジプトから連れ出し、その旅路を導いていかれました。その道のりの中で、彼らを追手から守り、恵みをもって養い、罪を犯したものを戒め、彼らと歩みを共にされました。
今日、私たちが生きる中においても、復活して永遠に生きておられる主イエス・キリストが、私たちと共なる歩みをしてくださっていると信じます。
キリストはまさに私たちの隣人となってくださいました。
私たちが教会に招かれ集うこの時だけではなく、いつどこにあっても、何をしていても、あなたが隣におられること、私たちの働きが神様によって用いられていることをおぼえ、悔い改めつつ日々を過ごすことが出来ますように。

国の緊急事態宣言も延長され、今なお集うことのできない教会があります。
一人ひとりが分断の中にあってなお、あなたが私たちの祈りを通して一つとしてくださっている、その信仰に立たせてください。
今孤独と困難の中にある信徒一人ひとり、そして教会のために、あなたがその鞭をもってその信仰を清め、力づけてください。
医療の現場、人々を守る最前線で働いておられる医療従事者の方々の労を労い、その心に平安と愛をお与えください。
そこで働く一人ひとりの手をあなたが用いて、病の中にある人々のいのちを救い出してください。
祈りによって互いに支え合い、この困難の時を過ぎ越すことが出来ますように、どうぞ主よ、あなたの御心のままに、私たちを守り導いてください。
そして教会が、一人ひとりが、隣人の助けのために何が出来るかを教えてください。
私たちの働きの一つ一つが、あなたのみ旨に適って用いられますように。

2021年3月5日金曜日

次回3月7日・四旬節第3主日礼拝のご案内。

次週2021年3月7日(日)は四旬節第3主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「キリストが清められたもの」

と題して、10時半より
松本教会では主日礼拝として、長野教会では信徒礼拝として行われます。
牧師は松本教会におります。どうぞご自由にお越しください。
礼拝後は当ブログにも礼拝全体の動画を載せます。こちらもどうぞご視聴ください。

† † †

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

──ヨハネ福音書2章13-22節

2021年3月3日水曜日

今週の黙想文(出20:4)

あなたはいかなる像も造ってはならない。
──出エジプト記20章4節

† † †

十戒に記されたこの規定は、単純に「目に見える形をかたどって作ること」を禁止しているのではありません。
本質的な意味で、この「像」とは「神の鏡像」のことを指しています。
神によって「神の似姿」として造られた人間こそ、神の愛が鏡のように映し出された像であるのです。
鏡に映った姿を自分自身だと認識するためには、自分とその鏡像とを外からの視点で見比べる高度な認識能力が必要だと言われます。
これを「メタ認知」能力と呼ぶそうですが、このメタは「超越する」という意味の言葉です。
ところで、ギリシャ語で悔い改めを意味する「メタノイア」も、「ノエオー(考える)」と「メタ(超越する)」を組み合わせた言葉です。
悔い改めが起こるとき、私たちは神の姿が証されているみ言葉という鏡を通して、自身が本来神が意図したかたちではないことに気づかされるのです。
私たちが実像である神の似姿へと戻されていく、その始まりに起こる悔い改めを求めて、み言葉に耳を傾けてまいりましょう。
(20210228週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。